>古代宗教から近代思想までのすべての思想が、『実現不可能視』を暗黙の前提に生まれてきたという認識のさらに一歩先には、この「実践(=運動)の核になる理論の必要十分条件とは何か」という視点が横たわっていると思います。(土山さん) <
どうして古代宗教から近代思想までのすべての思想が「実現不可能視」を暗黙の前提にして生まれてきたのか、考えてみました。
それらの思想が考え出された背景には、どうしようもなく見たくない現実があったのではないでしょうか。
本当にそれら時代には、その略奪闘争や私権統合はどうしようもなく変わりようのない現実だったのでしょう。というか、略奪闘争の無秩序な時代よりもまだ私権統合という形ででも秩序のあるほうがまだマシだったのかも。
でも、視点を転じて今の時代を見てみると、その私権統合は衰弱しきっている現実があります。
そのことは、いままでの社会の枠組み=私権社会(国家や制度)がガタガタになっているという点で社会不全をひきおこしていますが、どうしようもなくいやな現実である「私権統合」の衰弱とも言えます。
これを可能性と捉えられれば、私権社会が始まる以前は人類がどう適応して生き残ってきたのか、を追及することが「実現可能性」を探る糸口になる。
それが、これからの理論に必要な視点なんだと思いました
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