旧観念の代表は古代宗教と近代思想です。この二つを多くの人は全くの別物と捉えておられる様ですが、西欧発の近代思想はそれ以前の支配思想であったキリスト教と、驚くほどよく似た思想構造です。
元々キリスト教は武力支配の時代に生まれたもので、苦の塊、かつ変革不可能な武力支配の現実に背を向け、頭の中だけを充足させる(苦痛を和らげる)ためだけに創られ、普及した観念です。(神や愛)
その現実否定性はものの見事に近代思想の諸概念にも継承されています。
「自由」も「平等」も「平和」もその根拠を示すような事実やそれ自身の実態的中味は実はありません。だからこそ抑圧や差別や戦争と言う「苦」の現実がある時代には、強い収束力を持ちましたが、「苦」が衰弱するにつれて忽ち収束力を失いました。つまり全て現実のアンチ、つまり「反」に基づいて頭の中に理想状態を描いた空想観念に過ぎません。
それだけではありません。例えば平等はキリスト教の「神の前の平等」を転用したものです。或いは「博愛」はキリスト教の「愛」を転用したものです。それらのことに象徴されるように、概念的にも二つの思想は同根で、要はその究極の根拠を「神」から「人間」(頭の中で作りあげた本来の人間的なるもの)に置き換えただけという事が出来るでしょう。
しかし、近代思想はこれらの理想とする「社会状態」を導く導きの糸として現在もなお君臨しています。おそらくそれは多くの人々が、宗教から始まった2千数百年の思考パラダイムである、現実の否定から出発し頭の中で理想状態を捏造するという思考の枠に、今なお引きずられているからだと思います。つまり理念(お題目)としてのこれらの観念は同じ理念を求める思考の枠組みの中でいくら考えても一見誤っているように思えないからでしょう。
>「旧観念無用」という否定型(≒不全発)から、「新観念の必要や展望」という肯定型(≒可能性発)に論を進めるためにも、避けては通れない道だと思います。(土山さん50892)
この枠組みを打ち破るのが「根拠」や中味をトコトン問い詰めること。実現不可能性が刻印された時代の思考の枠組みを崩すには、まず改めてこれらの旧観念を頭の中の閉じた世界から現実世界に引きずり出し、その無効性を明らかにすることが不可欠だと私も思います。同時にそのことが新観念に必要な条件(事実の根拠と中味=対象の構造を解明したものであること)も明らかにしてくれるはずです。 |
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