>ぼんやりと旧観念は役に立たない、と捨象しているだけではなく意識的に「旧観念を全否定」する言葉が必要なのだと思います。そしてそのことよって始めて、自らの意識の全面的誤りに気付くことも可能になります。それは最も深い次元からの思考ベクトルの逆転の始まりです。またそうして始めて、新しい認識の必要性を実感すると同時に「当事者」としての全的な可能性の予感も直観できるのだと思います。
このこと、認識営業での自体験を通して、あらためて気付かされます。
そう、もっと「しっかり、きっぱり」と「旧観念の無用、そして旧観念が新しい可能性(外圧)へ向かう、活力(内圧)を自ら閉ざしてしまうことの弊害」を意識して語ることなのだと。
内に潜む旧観念を「しっかりと」捕らえ「はっきりと」役に立たないと言い切ってゆくことなのだ。
今まで多くの人と(50,60代が多いのだが)閉塞や不全をそして現実や次代の実現可能性を語り合って来たのだが、何かすっきりとした、きっぱりとした反応が今ひとつ伝わってこない。(不可能視・傍観者の域を踏み出すことの感触を掴みかねている)
私権の終焉も、みんな不全も多くのひとはどこか気付いているし、変えなくちゃと思っているのだが、ぼんやりと。
「ぼんやり」なのは、「旧観念は、もはや役に立たないこと」がまだぼんやりしているからなのだと。
適応不全をおこしている「旧観念」では新しい潮流も可能性として掴みきれず、答えも見えず、あげくのはてが思考停止なのだと。
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