>誰かが社会不全⇒認識欠乏に応えてくれるのを待ち望んでいる状態、あるいは認識欠乏に触れて貰いたがっている状態にある。
この文章を読んで、感じるものがありました。
今、社会(政治など)で支持される人たちは、「改革」を訴える人であったり、旧体制に対して反対の姿勢を見せる人たちです。それらの人々を、支持する人に対して、何かしっくりしないものを感じていました。
いとも簡単に支持できるのはどうしてでしょうか。どこまで、中身を理解しているのでしょうか。
支持する理由は「自分では何ともできないけれど、社会不全を口に出して言ってくれる。良くしてくれそうな気がする。」という人も多いのではないでしょうか。
“気がする”で支持するというのもどうかと思いますが、これらはまさに>社会不全⇒認識欠乏に応えてくれるのを待ち望んでいる状態<が生み出した現象だと思いました。
待ち望んでいる状態だからこそ、中身の吟味なしに支持してしまう。
しかし、結局同じだからしばらくすると、また同じように社会不全に応えてくれそうな人を支持してしまう。それも飽きてしまって、政治から興味が薄れる。といった具合でしょうか。
ただ、それでも間違えなく、人々は新しい認識を求めているといえます。可能性がない、都合が悪いと思えばいとも簡単に人々の支持者が変わってしまう。そんなところからも認識を待ち望んでいる状態が感じられます。
改めて、認識というものに可能性を感じるとともに
>『認識の必要』を共感し、認識課題を共有した認識仲間となる
考えるだけで、楽しくなってきました。 |
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