>そうして形成された新しい関係が、従来の親和を主軸とする関係ではなく、あくまでも新しい認識を巡る期待と応望の信頼関係であれば、互いに自ずと『認識の必要』を共感し、認識課題を共有した認識仲間となる。<(40914)
これまでの「従来の親和」を主軸とした人間関係だと、いざ社会を対象化した話になったときに全く繋がっている感じがしない感覚に陥ることがある。考えてみるとお互い代償充足にひたって相手の自我を「解ろう」としているだけだったのかも知れない。
ただ親和は仕事や認識における闘争と解脱という意味においては表裏一体であり、不要なものではない。
もしかすると、これまで親和関係の本質を理解していなかったのかもしれない。
>サルが形成したこの全く新たな共認機能について忘れてならないのは、不全感から解脱する為の解脱共認(親和共認を含む)こそが、全ての共認の原点であり、その母胎の上に闘争共認や規範共認が上部共認として形成されているということである。<(実現論010408)
問題は解脱共認の前にある不全感の捉え方だと気づいた。改めて「不全の中身」を考えたとき、それは社会不全であって、人類全てに共有した課題だったんだと。それが単一集団を超えて社会を対象化することであれば、親和空間は社会を対象化することで作られるべきであり、解決の糸口を見つけていく作業が結果として解脱空間としても機能しているんじゃないか。
だから顔を知ってることは重要ではなく、『認識の必要』を感じる者が繋がる場があればよいと思う。
そして『認識の必要』を課題として共有することを主軸とした人間関係の間では、おのずと其処に新しい親和空間が備わっているのだと感じる。 |
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