「集団」から離脱するということは、「集団」の外の世界を(つまり社会)を対象化すると云うことであり、突き詰めれば、社会の当事者になるということに他ならない。
従って、「集団」から離脱した人々が、外の世界(状況あるいは社会)を把もうとするのは、当然である。そしてその社会は、全面的な閉塞状態にあり、不全感で充満している。とすれば、人々は新たな収束先=答えを求めて、必然的に探索過程に入ってゆくことになる。というより、既に潜在思念は探索過程に入っている。これが、外向収束⇒認識収束の潜在潮流である。
今や、「私権観念が瓦解して、社会不全を捨象し切れなくなった」という段階を超え、言葉にこそ出来ないが、『発信欠乏が喉元まで出かかっている』段階に来ている。云い換えれば、誰かが社会不全⇒認識欠乏に応えてくれるのを待ち望んでいる状態、あるいは認識欠乏に触れて貰いたがっている状態にある。
従って、少しでも不全を解消してくれそうなor当事者欠乏を充たしてくれそうな新しい認識が与えられれば、喰い付いてくる。だから、話題を不全課題⇒認識課題に持ってゆくのは、簡単である。むしろ、歓迎される。だから、何回か話をして仲良くなるのも、難しくはない。これは、つい一〜二年前まで社会不全や社会認識の話は敬遠されてきたことを思えば、180度の転換であり、人々の意識状況の変換のスピードには驚嘆させられる。
そうして形成された新しい関係が、従来の親和を主軸とする関係ではなく、あくまでも新しい認識を巡る期待と応望の信頼関係であれば、互いに自ずと『認識の必要』を共感し、認識課題を共有した認識仲間となる。そこまでいけば、次は自ずと『勉強の必要』の共認に至るだろう。 |
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