生存圧力の衰弱に伴って、社会はドラスチックな展開を見せている。
生存圧力(私権の強制圧力)の衰弱は、既に日本においては1960年代からスタートし、1980年代で完全に物的な飽和状態を迎えた。物的欠乏が二義的になり、その結果現れたのは、私権時代に刻印された共認非充足状態→代償充足の欠乏に応える、芸能(歌謡、演劇、スポーツ等)の大衆化である。(正確には生存圧力から脱した支配階級から、その欠乏は顕在化し始め、市場の拡大と共に増殖し、貧困の消滅で一気に拡大した。)
この代償充足の欠乏は映画、劇場、競技場、そしてテレビ等の演場(代償充足に応える評価闘争の空間)を市場の只中に形成し、拡大させた。そして、その場における評価指標をお金から人気(観客数、視聴率)に代えた。もともと芸能などの、共認欠乏の代償充足の行為は、市場の外(それは例えばローマ時代の奴隷の決闘から始まる。つまり欠乏が拡大するまでは金を払ってまで見るものではなかった。)から登場し、市場の中に入り込み、かつ今やその演場での評価は市場での売上を左右し、人気という新しい指標はお金と言う古い指標を従属させている。そして今や社会的評価と言う点では芸能人は政治家や経営者を凌ぐ憧れの的、最も偉い人となるにいたっている。
>その際、最先端の機能or意識or闘争は、常に古い機能or意識or闘争によって構成された古い現実世界の真っ只中に登場する。それが、真に最先端の適応機能(or意識)ならば、当然、古い機能(or意識)を自らの下に収束させてゆく。(四方氏35729)
人々の最先端の意識は共認不全から社会不全へと転換しており、もちろん芸能はこの現実(社会の統合不全や行き詰まり)に対して何の役にも立たないことは言うまでもない。そもそも代償充足の期待に応える芸能は外圧に対応したものでもなんでもなく、単に共認不全を解消させる機能しかない。(従ってもちろん現在の演場は適応機能でもなんでもない)
そのことを承知であえて書けば、芸能は新しい欠乏の顕在化→新しい闘争の場の形成→評価指標の塗り替えという道程を既に現実化させている。その意味で認識形成の演場が切り拓こうとしている地平と(奇妙な?)類似性を持つ。
おそらくこのことは大きく見れば物的欠乏⇒物的生産に対する、共認欠乏⇒意識生産が持つ共通性に起因するものであろう。また物的圧力から開放されたその後に必然的に登場する転換と言えるかもしれない。いずれにせよそれは、評価共認が社会を左右する共認社会の基盤の一つを形成する。方や芸能が傍観者、方や認識形成が当事者という決定的な違いを持ちながら。
いずれにせよ新しい欠乏の顕在化(類的欠乏が現実化すること)に伴う社会の再編の一つと、この現象は捉えられる。
と同時に、この現実を塗り替えるには、認識形成の場が、現在の市場と演場を支配している、芸能(=代償充足欠乏の蔓延)に競り勝つことこそが直接的な次の課題なのかと思う。
それは共認不全に拘泥したまま、代償充足に埋没するか、社会不全と現実を直視し、当事者として時代に生きるか、という我々に対して突きつけられた決定的な選択でもある。
|
|