認識形成の場を市場化するとは、どういうことだろうか?
スポーツの世界では、必ずしも「強い者が勝つ」わけではなく「勝った者が強い」とよく言われますが、現実場面で勝たなければ何の意味も無いし、評価もされません。先ほどのW杯で目の当たりにしたことでもあります。
卑近な例ですが、認識形成において翻訳すると、
「強い者が勝つ」=優れた本物の認識は必ずや人々に必要とされる、と主張することは簡単ですが、「勝った者が強い」=現実の場で人々に必要とされる事こそが真に優れた本物の認識である、というように言えるのだと思います。
またこれは、まず認識ありきではなく、現実を直視する中で皆で紡ぎ上げていく認識だからこそ現実に適応できる、という事を示すのだと思います。
実現論においても、
>実現論は、現実の市場圧力に晒されながら成長してきた生産体・類(るい)が、30年の歳月を費やして構築したものである。それ故、実現論は徹底した現実直視の姿勢に貫かれており、(中略)実現論は、皆で生産し経営し共同体を建設するという実践と一体になっている。実践の必要の中から皆で追及され、皆に共認されて生み出されてきたもの(実現論9_1_02)とありますが、
実現論の価値は、実践の必要から産み出された生きた認識にあります。
るいネットでも述べているのは市場不用論ですが、敢えてその市場(圧力)に身を置きながら市場に住む人々の評価を問う事にこそ意味があるのだと思います。現実の圧力のかからない場でいくら認識形成したところで意味を成さないのでしょう。
認識形成の場=新たな社会統合機構を作るということは、現実を塗り替えていく生産活動に他ならず、その意味で市場化は至極当然のことだと思います。
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