確かにこの、「必要か否か」という判断基準は、鮮烈な捉え方の転換ですね。
この「必要か否か」が最も問われてくるのは、現在は消費や遊興の場面よりも、むしろ経験上は仕事の場面です。
仕事の局面では、まず取り巻いている社内外の圧力の内容を考えます。そして充足可能性(突破可能性)をにらみながら、それら課題化し、それぞれの活動(と金)の要・不要を判断していきます。つまり常にその判断は状況を読む、ということとセットになっています。
それに対して、消費の局面では殆どそのような状況判断は働きません。
そのように考えるとおそらく、本来の必要性あるいは「要・不要」とは、外圧に対する「適応」可能性からくる判断軸であったのだろうと思います。
つまり現実の圧力を直視し、それに対して対応するということです。
それに対して今までの物的消費や遊興や倒錯観念と、それらに対する「欠乏=必要」は、現実の私権圧力に対してはどうしようもないことを前提とし、快美充足と解脱充足にしか充足可能性ない中で、いわば現実の不全を忘れさせるために、強制的かつ自発的に作られてきたものであるということなのではないでしょうか。
だからこそ現在の消費活動には、外圧の把握や状況判断が一切伴わないのでしょう。いわば今までは現実から逃避するために金を使ってきたことになります。
>置かれた環境を貫く 闘争圧力を把握せよ (四方氏29835)
私権圧力の衰弱と同類圧力への転換は、必要性の捉え方そのものを大きく変えていくことでしょう。そこでは必要性は当事者としての圧力の把握と状況判断に導かれた、充足可能性の判断に委ねられるようになることでしょう。 |
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