四方さんの投稿を読んでみて、ふと世に蔓延するすべての事象や物事は、「必要か否か?」のはかりにかけることが可能であることに気付かされました。同時に今現在それらの物事をはかりにかけてみると、「否」(=必要でない)を示す物事の方がほとんどだと言う事にも気付かされました。
また、「必要か否か?」の判断機能は、生物の有史以来、誰にでも備わっている機能である以上、ほんのちょっとのキッカケさえあれば、人々の潜在思念に訴えかけるに相応わしい問いとも言えます。おそらくこの判断軸が広がっていくのにそんな時間はかからないことでしょう。
そして、「必要か否か?」の判断機能が万人夫々の認識として組み込まれた時、もう誰かに踊らされたり(たとえばマスコミ等)、自分を見失ったり、迷うことなんてなくなることでしょう。自ずとというか、自然に私権や地位を奮いかざすマスコミや学者などが淘汰されていくことは目に見えています。そりゃあそうです。鋭く本質を突いたキーワードである「必要か否か?」の判断=問いでもって、万人が審判を下すわけですから。
>この様にして、『判断の土俵』を基礎とし、『人数』を評価指標とする>新しい演場の中に、国家(身分)も市場(お金)も呑み込まれ、解体さ>れ、再統合されてゆくことになる。
つくづく人々の意識そのもが土俵をつくり、社会はその表われでしかないのだと気付きました。
社会統合に向かって絶対条件でもある「判断の土俵=認識形成の場」とお金を遥か超越したところに位置する「人数」のこの二枚のカードを揃えるために、これからが私達の認識闘争の正念場だと感じます。 |
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