若者たちが、そんな不安定で不確かな(よって、信じられない)価値よりも、日常的な仲間関係のヒエラルキーに収束してゆくのは、よく分かる気がします。
確かにそこでは、仲間を過剰に意識しすぎていじめや表層化現象が起こったり、評価軸に偏り(異常性)が生じたりして問題視されていますが、それは仲間圧力やヒエラルキー構造自体が原因なのではなく、そこにしか突破口(収束or統合可能性のあるもの)が開けておらず且つそこに普遍的課題(生存的課題や社会的課題)がない為に、排他的・盲目的になってしまうからではないかと考えます。
そしてそれは、個人主義や多様性信仰の名の下に、共認域がごく狭域に留まることを余儀なくされ、快楽至上主義と市場社会(労働疎外)においては、消費と享楽を価値とする生活を目的とするしかなく、自由第一と無圧力化要求の結果、集団(仲間)と規範と課題をとことん排除してきた、その必然のように思います。
そんな中では、個人的主観がたまたま一致した人同士のみと、客観的にはどうでもいい価値軸にしがみ付き、そこに異様なまでに収束してつながりを実感するしかないのでしょう。
けれど、権力統合の崩壊と共に、新しい可能性も発現し始めているように思います。
例えば、“カリスマ美容師”“カリスマOL”と呼ばれる存在も、自分たちの実感とつながりの中で生まれてきた評価共認であり、そのヒエラルキー形成自体は、何処の誰かも分からない人を肩書きのみで評価する構造よりは、遥かに真っ当な意識だと思います。
あとはそれが、消費や趣味の個人的嗜好に留まらず、広く生産や社会の普遍的課題に対する評価ヒエラルキーの形成にまで至れば、そこでは、必要な課題に応じて現実の成果こそが評価され、みんなの尊敬と肯定視と信頼感を受けた人物が指導者としての役割も担ってゆくという構造が、容易に成り立つように思います。
そうすれば、社会(現実)から隔離した役に立たない学校という場も、吸収することを拒絶する生徒という存在も、自己満足や自己実現の為の勝手な思いを押し付ける教師という立場も、発生しないのではないでしょうか。 |
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