中世から近世にかけての大衆市場の発達において、庶民への芸能や文化の浸透は見逃せない要素である。
とりわけ室町時代から戦国時代にかけては、庶民と貴族との文化交流が盛んであり、相互の文化が受容され、階層を超えて文化が発達した時代である。能・狂言、そして茶の湯や生花。これらの文化は公家や武家だけではなく、都市の商工業者や村の百姓(商工業者と農民・漁民)などの庶民の上層部の文化でもあった。和歌の上の句と下の句を別々の人がつくってまとめていく連歌は、村の寄合などでも流行した。
また、お伽草子とよばれる絵本がつくられ、「浦島太郎」や「一寸法師」の物語が、武家や民衆の人気を博した。室町時代には、今日に直接通じる、文化や衣食住の生活習慣がおこった。村祭りや盆踊りといった年中行事も、すべてこのころ始まったものである。
各地の寺院では、江戸時代の寺子屋に繋がる、武家や庶民の子どもの教育も始まっている。
○惣の発達と大衆芸能の進展
もちろんその原因として、生産力の上昇によって生活に余裕が出来たことは指摘できる。しかし、それだけでは説明はつかない。
こで、注目されるのが中央権力の衰弱の中で、拡大していった惣村の存在である。当初は人々はこの集団を一揆と呼んでいた。一揆といえば百姓一揆を連想するが、元々は、惣村を形成する中で、幾つかの村が共同で村の人々の生存と繁栄をはかるために協同してつくった集団を指す言葉である。おそらく、集団の団結を図る誓いの儀礼に由来する言葉なのであろう。
しかし一揆を組んでいたのは百姓だけではない。都市民もまた一揆を組んでおり、それは惣町と呼ばれる組織であった。さらに武家も公家も一揆を組んでいた。
中世の政治は、寄合という一揆でなされるのが通例である。それは王朝においてもそうであったし、幕府においてもそうである。惣村でも惣町でも寄合が決定機関であり、これは寺社でも同様である。一揆とは神の前で一味同心を誓うことで形成された集団であり、こうすることで集団の意思という個人や個々の家を超えた権威を形成し、それによって物事を解決していくしくみであった。
この寄合という一揆を形成し、その構成員の繋がりをより強める場は宴であった。そしてこの宴の場の余興として盛んに取り入れられたのが連歌であり、さらには猿楽・田楽やそこから発展した能や狂言なのであったし、茶の湯や生花も同様であった。
一揆の構成員の集団としての共同作業で成立する芸能。この共同作業が構成員の意識を形成し高めたのである。
そして村祭りや盆踊りは、これらの集団全体が共同意識をもって、それぞれの祖先の供養と子孫の繁栄を願って行われるものであった。だからこそ村や町にも、惣村や惣町が費用を負担する鎮守の社や寺が造られたのであるし、これらの神々は、村なら農業、商工業の町なら商工業の繁栄を祈る神事を行う場であった。したがってこの共同の神事にも共同の余興が伴う。当時の盆踊りは「風流踊り」と呼ばれ、人々は派手な衣装をして派手な音楽を背景にして数百人が派手な所作で踊り狂うものであった。現代の阿波踊りをもっと派手にしたものと考えれば良いであろう。そしてこの風流踊りは踊り単独で行われたのではなく、行列の先頭や末尾には「花笠」と呼ばれる大きな飾り傘が立てられ、しばしばそれは頭に様々な人形を乗せたり車に載せられ、祇園祭の山車のような形態をも持っていたのである。またこの風流踊りは盂蘭盆会だけではなく正月の行事や悪霊払の神事や収穫を祝う村祭りにも行われ、それぞれの部落ごとに踊り部隊が形成されて、村の鎮守や惣堂および領主の館に、入れ替わり立ち代り踊り入れるという、集団喧騒の興奮の場であった。
またこの風流踊りが村や町の鎮守や惣堂で行われるだけではなくて領主(公家の場合もあるし武家の場合もある)の館にも押しかけるということは、この遊びが庶民と領主の共通の遊びになっていたことを示しており、集団で楽しむ遊びが、階層を超えたものであったことをも示している。
事実連歌や茶の湯、そして生花や能・狂言の場は、身分を越えた饗宴の場であった。だからこそ、これらの饗宴の場を主催する芸能師が、これらの身分を越えた人々の間をとりもつ政治的役割を果たす事にもなるのである。
○芸能の民の形成 このような惣と一揆の形成が、全国の町や村において様々な集団的芸能を繁栄させた背景であった。つまり個々の家や一揆集団の繁栄を祈る神事に芸能が欠かせなくなったことが、これらの芸能を専業的に行う人々の活動の場をも広げたのであった。これによってこれまでは寺社や貴族に隷属していた芸能民が独立して活動し、それぞれが芸能の座を形成していったのである。
惣村や惣町は、それぞれの一揆の神事に欠かせない芸能を行う座と契約を結び、それぞれの年度の神事の余興をあらかじめ予約していくのである。もちろん契約であるからそれは金銭の授受を伴う。さらには惣村や惣町の構成員は、専業的芸能民に依頼するだけではなく、それらの専業的芸能民にそれぞれの芸能を教わり、村や町の構成員自身がその芸能を演じるということが盛んになっていく。つまりそれが、芸能民にとっては、芸能の教授という新たな稼ぎの場を生み出す事となったのである。
応仁の乱を前後する時代からは都の貴族や僧が地方に赴き、中にはそこで一生を終えるものまで出ている。その背景には、都の戦乱と貴族・僧たちの生活苦という条件があった。都は武家たちの争闘の場となり、武家の勢力の伸張は、公家や寺社の領地を不断に侵食していく。彼らの生活の糧をえる場は、次第に縮小していた。 こうして都の公家や僧たちが次々と地方に下り、都の文化が地方にも広がる結果となったもう一つの原因である。
参考:「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー リンク |
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