>そして『認識』は、それが当り前のものと成れば成るほど、絶対的な共認圧力と成って末端まで貫通した統合機能を獲得する。
しかし、普通の言葉がそうである様に、当り前になるほどその圧力は意識されなくなり、従って活力源としての機能が弱くなってゆく。
この一文を読んで、現代のマスコミや一部の統合階級の人たちが生みだしたであろう流行や法律等が連想させられたが、もう少し考えてみるとそのあり方が大きく違うように感じられてきた。
TV等に代表されるマスコミや国会などの場においては、大多数の人々は一方通行的に情報を受け取り、また様子を眺めているだけである。そして多くは画面の向こう側の出来事として留まり、そのことは実際の認識レベルにおいて共有されているという感覚は乏しい。なんとなく画面の向こう側で決められていて、それに従い乗っかることだけが選択枝してあるという感じとでもいえばいいのだろうか。
いまこのるいネットで議論されているる内容や認識については、感想やさらなる認識の提示として投稿したり、また評価ボタン等の仕組みを設ける事により評価することができれば、その認識作りにかかわれる可能性を秘めている。そして、認識作りにかかわれるということは、直接自分たちが暮らしている生活を自分達の手で作り出せているといった手ごたえを感じ、またその場にかかわるみんなの世の中に対する思いの期待と応望を交換していく行為でもあるだろう。
そんな風に、みんながかかわれる形で新しい認識がつむぎだされる仕組みができれば、社会全体としてはいい方向へと変っていくにちがいない。
このるいネットがそのひとつの可能性を秘めていると思う。
|
|