集団や社会は、人々がその時々の課題や役割や規範に収束することによって統合されている。その統合力を織り成すのが共認形成力であり、それこそが人類の集団や社会の本来の統合力である。
ところが、略奪闘争の連鎖によって形成された私権社会では、敵を倒し屈服させる制覇力が、そのまま社会の統合力となってきた。武力社会では武力こそが社会(国家)の制覇力=統合力であり、市場社会では資力こそが社会(市場)の制覇力=統合力であった。そして、市場社会では「お金第一」の共認力が「武力第一」を上回ったことによって、資力>武力の力関係が続いてきた。
しかし、人々が飢餓の圧力から解放され私権圧力が衰弱すると、本来の統合力である共認形成力が前面に出てくる。その結果、マスコミが絶大な力を獲得し、’70年以降はマスコミ支配とも言える社会に移行した。その間も私権欠乏は衰弱し続けていたが、’02年頃、とうとうお金は第一ではなくなり、資力は社会の制覇力=統合力たる地位を失ってしまった。そして遂に、人類本来の統合力である共認形成力が社会の制覇力=統合力と成って復活した。それは、人類進化の実現基盤の再生である。
なお、現在は、過渡的に共認形成力>武力>資力となっている。(注:覇権交代期では、力を失った資力よりも、最強の制覇力である武力の方が上になる。ロシアの軍事力の前に金貸したちが為す術もなく駆逐されてゆくのは、そのためである。)
改めて社会の制覇力=統合力となった共認形成力のその力は、認識力に規定されている。従って、今後、数年の間に人々の認識(力)欠乏が急上昇して、認識収束の潮流が形成されてゆくだろう。お上が暴走すればするほど、人々の危機感と不整合感が上昇してゆくことは先に見た通りだが、そこから生じる社会統合期待や(自らの意識の)統合欠乏も、この認識収束の潮流に合流してゆく。また、市場の縮小→生き残り競争の渦中にある企業(社員)が孕む能力欠乏も、この認識収束の潮流に合流してゆくことになる。
これらの認識収束の潮流は、全て本源収束の大潮流に根ざしている。そこでは、何よりもまず相手の期待に応えようとする相手発の姿勢が求められる。従って、自分の利害発でしか物を考えない「自分脳」は淘汰されてゆく。また、人々は実現=可能性に向かっているので、何事も否定することしかできない「否定脳」も淘汰されてゆく。もちろん、自分の頭で物を考えることのできない「暗記脳」が淘汰されて終うのは、言うまでもない。
従って、これから始まる認識収束の過程で「自分脳」と「否定脳」と「暗記脳」によって生き永らえてきた近代観念は全ての存在基盤を失い、近代観念からの脱却と新理論への収束が一気に進行する。 |
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