徳川幕府は約200年間安定して武力統合していたように見えます。彼らの政策は非常に巧妙であり、武力制覇国家が生き延びていくのにベストに近い形態をとっていたともいえます。その幕府も明治維新で滅んでしまうわけですが、その過程には武力支配ではどうにもできなかった何かがあるように思えます。
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幕府はまず、他の武力統合国家よろしく身分制度で統治しようとします。特に留意したのが、生産の主力であり、一度反乱をおこすとやっかいな農民でした。
ここでとったのが、飴と鞭の政策。
まずは身分序列の「士農工商」。農民は武士についで2番目なんだ、これが飴。一方で現実には厳しい規則でがんじがらめ、これが鞭です。
さらに、他の武力勢力を徹底的に排除・去勢することにも成功しました。すなわち、親藩・外様に武家を分け、身内である親藩に外様を見張らせるように領地を配分。さらに参勤交代というボディーブローで身動き取れなくなった各藩は反乱しようにもできなくなります。
なるほど、ツボを押さえた政策により、幕府はしばらくは安定した統治力を見せます。ここまではほぼ計算どおりだったはずです。
ところが、思わぬところから綻びが生じます。その主役はほとんどノーマークだった商人でした。彼らに経済という武力以上の権力を握られた武士たちは統治力を喪失し、死に体となり、実態上機能しなくなってゆきます。黒船の来襲といった外圧、あるいは薩長の台頭は滅亡の単なるきっかけに過ぎないのです。
当初は、武士と農業・漁業を繋ぐ単なる仲介人にすぎなかった商人が、そこまでの力を持つに至る過程に、答えが見つけられそうな気がします。
武力統合の限界とともに、安定期下での市場の醸成が重要なヒントになりそうです。
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