追求のススメ3.追求力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」294733を読み、自分は豊かさが実現され私権圧力がとっくに衰弱している中で生まれたというのに、頭の中は旧い邪魔な私権観念に塗れていること、日常キャッチする不整合感も未知への探究心や追求力も自分より子どもたちの方がよっぽど優れていることに気づきました。
気づいてからは、自分の無能さを自覚し、子どもの発想や着眼点に学び、一緒に追求を楽しんでいます。むしろ、安易に自分の知っている答えを与えてしまうことが子どもの力を奪う害なんだと日々実感しています。
先日、論語を音読していた小2の娘が、
「論語って、なんで“子曰く”ばっかりなの?どういう意味?」
と聞いてきました。
つい、それはね・・・と言ってしまいがちですが、答えを言ってしまっては「へえそうなんだ」で終わってしまいます。
「なんでだろうね?どういう意味だと思った?」
と問いかけ、でてきた答えに対してまた問いかけたり矛盾をついたりすると、自らたくさんの仮説を考え、結果的に
@“子”とは、論語を書いた人が尊敬している、親か師匠のような存在だろう
A師匠が日ごろ言っていた、みんなの役に立つ言葉を忘れないように、他の人に伝えるために論語を書いたのだろう
という仮説を導きました。
(※師匠と弟子という具体的な関係を表す言葉はわからなかったのですが、自分の好きな“聖闘士星矢”の“カミュ”と“氷河”みたいな関係じゃ?とひらめいたのです。)
お互い、きっとそうに違いない!という気持ちですごくすっきりして、さらに娘は
「もっと何回も読んで、書いている内容もわかるようになりたい。なんで書こうと思ったのかも知りたい」
と、ますますやる気になって読んでいます。
好奇心のかたまりである子どもは、自分なりに未知なものを追求してそれを親と共有しようとします。
本来、子どもの感じるたくさんの不整合感(疑問や好奇心)は、乳児→幼児→学童と大きくなるごとにその対象世界を拡げてゆき、まわりの家族や仲間と追求充足を繰り返すことで観念力も追求力も磨かれていくはずですが、まわりとの充分な追求充足がないと、思考停止して簡単に答えをほしがるようになってしまいます。
秩序が崩壊している現代で、子どもたちが真っ当にのびのび追求して答えを出せる大人になっていけるかどうかは、旧観念に染まった今の大人たちが、“教える教育”によって子どもたちの不整合感を出来合いの私権観念で簡単に中途半端に整合して、追求停止させてしまっていることを自覚し、まず大人が今まで疑いなく蓄積した常識や知識を立ち止まって問い直し、自分が発想しなかった子どもたちからの疑問に感謝して一緒に追求してゆく姿勢に転換できるかにかかっていると痛感します。 |
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