人類は、精霊を見ることによってはじめて、不整合な世界を部分的に(かろうじて)整合させることができたが、それは、現在も同様である。
人類にとって、世界は根本的に不整合であり、その不整合な世界を何らかの観念によって部分的に整合させて生きているにすぎない。
しかし、部分的に整合させているだけなので、絶えず問題(=部分的な不整合)が生起し、その都度に未知収束⇒可能性探索の回路が作動する。また、共認圧力は「いつ、どう変わるか分からない」恒常的に未知なる圧力であり、人類はその共認圧力に対しても、常に未知収束⇒可能性探索の回路を作動させている。
生物にとっても外圧の把握は最先端課題であるが、とりわけ人類にとっては未知なる外圧への収束と自考が何よりも第一義の課題となっている。この未知収束の回路こそが、自考充足と観念機能を生み出した源泉であり、人類の知能を著しく進化させた本体である。
(たいして中身がないと分かっていながらも、メールやラインやテレビを見ずにいられないのも、彼らにとって仲間圧力が、未知なる世界=「いつ、どう変わるか分からない」外圧だからである。)
なお、人類500万年のうちの99%は単一集団であり、人類が集団を超えた贈与関係を皮切りにして、社会の形成に入ったのはわずか1万年前であるが、社会を形成したのは人類だけであるという事実にも注目しておきたい。
共認機能は、相手の表情や身振り・手振り(=身体言語)に頼っているので、目に見える範囲でしか(≒集団という次元までしか)機能しない。それに対して、観念は集団を超えて共認することができる。従って、観念機能に先端収束した人類が社会の形成に向かうのは、必然であった。なぜなら、同類闘争の集団である人類集団において、ある集団の観念能力が他集団を上回れば、その観念力を武器に周りに進出してゆくのは必然だからである。
このことは、逆に言えば、対象世界が拡がり未知なる外圧が大きくなるほど、ますます観念能力が発達してゆくということを示している。つまり、対象世界が身近な狭い空間から集団へ、更には社会へ広がるほど、観念能力(≒言語能力)は高度に磨かれてゆく。(そのことは、とりわけ言語能力を磨き直す必要に迫られている現代人が深く意識しておくべきことだと思われる。)
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