>農業の営みの中には、生産消費的な側面だけではなく、生きる上での教育的な側面が多分にあったのに、薄らいでしまった。
農業や漁業(等狩猟)といった、自然を相手にする生産活動には、確かに人間を育てる”教育的な”側面があると思います。
以前、夏休みを利用した無人島体験というものに参加したことがあるのですが、その際にお世話になった漁師のおじさん(50歳半ばくらい?)なのですが・・・
まず、陸上生物である人類にとっては命がけの仕事であるということもあるのでしょうか、安全で快適な都会に住む我々とは本当に比べものにならない、自然に対する観察力というか、洞察力の鋭さがある。例えば、雨が降り始めるのを1分くらい前に予測してみたり、ちょっとした潮の流れの違いから漁の成果を予測したり・・・(うまい例が今一見つからないのですが、他にも色々)。
そして、何事も逡巡しない・・・きわめて判断が早く、間違わない。しかも非常に柔軟で合理的な思考と行動力。
・・・これは、自然に包まれて生きることにより、そこから受ける情報の多様性ゆえ、脳や感覚機能の発達が促進され、微細な変化にも敏感になる、感受性が豊かになる・・・という側面もあるでしょうが、自然という全く誤魔化しのきかない相手との闘いゆえ、正確に対象化する(前提として肯定する)ことなしには全く成果をあげることができないし、黙ってじっとしていても始まらない・・・ことに由来するのではないでしょうか。
・・・人間を相手にする時のような懐柔や私権的な押し付けは、自然に大しては、当たり前ですが全く通用しない。無力である。言い換えれば、自然には自我は全く通用しないと言え、彼らのおおらかで、開放的、友好的、非常に素直で正直、また、人に対するやさしさと同時に厳しさを兼ね備えた・・・気質は、そういった環境の中で、形成されるものではないかと思います。
少なからず”自我”のもたらす心の”壁”に悩まされ続けている都会育ちの我々が、いかに自閉的で、非力か、ということを思い知らされました。
最近、議論されている子供の教育問題に引き付ければ、これらの営為が、共同作業を伴うものであることも含め、子供時代に自然体験に留まらず、農業、漁業という自然相手の生産活動(=闘争課題)を担う(手伝う)ことが、健全な人間を育てる上での、一つの有効な手段になるのではないかと思います。
もう一つ・・・もう何年も何年もそうしてきているのでしょうが・・・自分で採った魚を自分で調理し、「うまい、うまい・・・」と言ってニコニコしながら食べる彼の姿が印象的でした。・・・自然に包まれ、漁をし、採れたものを皆で食べて生きる・・・シンプルな生活で十分満足しているし幸せだ・・・そんな感じでした。
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