その違いは、社会を統べる志と能力のある人材(引用文中では知識人)が、ストレートに社会と関わる土壌が備わっていたかどうか。
現実社会の否定視からスタートし現実を直視する人材を排除する立場にあったキリスト教に対し、目の前に横たわる問題の解決策を追求するために有能な人材を次々と登用出来たイスラム教。
両者の根本的な違いがそこにある。
イスラム側から見ると、キリスト教のスタンスは到底理解できないものだっただろう。
そして双方の宗教に均一に触れることができた民族は、迷うことなくイスラムを選択したと、容易に想像できる。
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◆対照的だったキリスト教とイスラムの幼年期
都市の拝金主義がその誕生の培養土となったという点では、キリスト教ともある程度共通していると言える。キリスト教も、なるほど誕生したのはエルサレムや死海の周辺だったが、それが成長したのはローマ市内であり、この都市の道徳的退廃に対するワクチンとしてその成長のきっかけが与えられたのである。
そのキリスト教とイスラム教の成長過程の最大の違いというのは、前者が主として下層階級が担い手となっていたのに対し、後者がメッカ上・中層階級がその担い手であったことである。
そのためキリスト教というものは、その本質において下層階級向きにできており、ローマ時代においては「貧乏人と女子供のための宗教」と蔑まれていた。実際に夫はギリシャ的教養をもってローマの神々を奉じているが妻から先にキリスト教に改宗したという家庭は多かったようである。
なぜそうなったかといえばその理由は簡単で、当時のローマ帝国内部というのはギリシャ的教養を頭にぎっしり詰め込んだエリートたちが掃いて捨てるほどおり、彼らを全部押しのけようとすれば、その教養を競う熾烈な競争に参加しなければならなかったからである。
このような状況下で別の新しい世界観を受け入れさせるのは容易なことではない。イエス・キリストといえどもうっかりローマへ行けば、試験をされて落第のレッテルを貼られたかもしれない。そしてその一方で、ギリシャ的教養は社会に規律を与える力が弱く、その自由主義は当時の道徳的退廃に対するワクチンとしては完全に無力であった。
それゆえそんなギリシャ文明に駄目にされたエリートどもなどもはや頼むに足らずとばかりに、下層階級の側がエリートたちをそのギリシャ的教養もろとも麻袋にくるんで縫い込め、谷底に捨てようとしたというのが、キリスト教発展の過程なのである。
そのためキリスト教というものは、その歴史において非常に多くの場合、下層階級がエリート階級を倒そうとする際の武器として作用してきた。逆に言えば、キリスト教圏では宗教が力を持つということは、知識人が鎖につながれるということを意味する。
それゆえ知識人たちは、宗教の中にとどまって下層階級のプロレタリアート的支配に甘んじるよりは、自由を求めて無神論へ走ることが普通だった。まさしくキリスト教世界の歴史は、下層階級による階級闘争と、知識人の脱獄の歴史である。
◆エリート優位のイスラム圏
これに対してイスラムは全く逆である。当時のメッカ市民が金儲けに忙しくてギリシャの本を読む暇がなく、議論の粗探しをして喜ぶだけのしょうもない似非インテリが少なかったことが幸いして、彼らはギリシャ的教養との死闘を経ることなしにエリート層を取り込むことが可能だったのである。
布教活動一つとっても、キリストの弟子たちが野宿も当たり前という状況だったのに対し、ムハンマド(マホメット)の弟子たちはメッカ上流階級の若い子弟が多かったため、広い館をまるごとぽんと専用に提供されてそこに寝泊まりしているという裕福ぶりだった。
この若者たちの何人かは、将来メッカの実力者としてその政治を行うことを約束されており、エリート階級の癖や好みというものがかなり宗教自体の中に入り込んでいた。そのためか、キリスト教とは全く逆に「男らしさ」というものを極めて重んじる態度がイスラムの中には強く根を張っている。
実際この宗教はそういう階層の人間に訴える力が強かったらしく、その誕生間もない時期に、すでに有能な武将・戦略家・行政官としての能力を備えた人物をもっていた。
実のところ、キリスト教が天下を取るのに300年もかかっているのに、イスラムが同様のことをするのにたった数十年しかかからなかった最大の理由がそこにある。
そしてその版図が安定してからも、エリートによる支配は続いた。その担い手になった存在は「ウラマー」と呼ばれるイスラム法学者である。
このウラマーのことを誤って「僧侶」と訳している場合は多いが、実際にはこれはいわゆる僧侶の概念とは相当に異なったものである。大体において、他の宗教において存在しているような僧侶というものは、イスラムにおいては存在しないのである。
これらウラマーすなわちイスラム法学者たちは、イスラムが社会生活において要求するイスラム法(シャリーアと呼ばれる)の解釈を行う人々であり、ユダヤ教における律法学者(ラビ)にやや似ている。
そして彼らウラマーは、単にイスラム法の専門家であるばかりでなく、彼らの中にはそのかたわらで数学や天文学・医学や歴史学・地理学もなどといった学問を修めている者も少なくなかった。逆に言えばイスラム世界で学問の担い手であった人々は、その総合的性格ゆえにイスラム法学もその修得範囲に含んでいたわけで、広い意味でのイスラム世界における知識人こそが彼らだったのである。(ただし科学史に名を残したイスラム科学者たちは法学よりも医学にかかわる場合が多かったようだが。)
つまり知識人たちはイスラムの奥深く入り込むことで、逆に下層階級に対する支配力を手に入れる格好になっている。キリスト教圏の場合とは全く逆に、イスラム圏では知識人は無神論に走る必要がないどころか、むしろわざわざパワーを手放すことになりかねないため、そんなことをする物好きは滅多にいない。
われわれは宗教といえばキリスト教世界のことをつい連想しがちだが、それを基準にしている限りイスラム圏の人々の行動というものはしばしば全く理解できない。しかし英国のイスラム研究者たちは、しばしばこのウラマーたちとその支配の姿に、英国のジェントルマン階級の支配の姿を重ね合わせて、親近感を抱くことはあるらしい。
実際、一つの文明の背骨となってそれを担い、腐敗で溶解することなくそれを長期間それを立派に支えぬいたその姿は偉大である。
そしてそれはまた(西欧の概念からする「知識人」とはいささか異質ではあるが)武力や権力を直接持たない知識人たちが、大きな一つの文明を集団で事実上統治することに成功した、世界史上ほとんど唯一の例であるという点でも注目に値するものである。
《引用以上》 |
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