ポトラッチについて興味深く読ませてもらいました。祭りにおいて部族が互いに宝物や余剰生産物を分け合うというのは、多くの方が仰るように最初は「贈与」という目的があったのでしょう。しかしやがてそれは過剰になり、最後は「贈与」ではなく相手の目の前で破壊するという行為に至ったといいます。
確かに、より多くの「贈与」をすることによって自分達の地位が、相手よりも上になるというのはわからないでもない。例えば、祝い事における振舞い酒やもちまき、有名人の寄付など、自分の富を「交換」ではなく「贈与」することで、結果的に評価を得ようとする行為は現代でも身近に見られる。
しかし、破壊という行為(大切な貴金属を海に捨てる、奴隷や家畜を撲殺する)は私にもなかなか理解できません。そのような豪儀なことをする人物としての尊敬を集めたのか?とも考えられなくもないですが、それもどうも今風の観念によるとも思えます。
ポトラッチについてなぞらえて、例えば米ソの冷戦における多大の国家予算の浪費、または現代人の無意味な流行に費やす金銭、あるいは男性の女性を巡るやりとり「恋愛」そのもの、などを語る方もおられます。がやはりしっくりしません。
ポトラッチの最終の到達点は、富の集中の防止だったのではないでしょうか。
かの地の部族民たちは、自らの手によって獲得してきた富を、持ちすぎることによってやがてくるであろう、活力の衰退を予見し、分配も限度を超えると破棄することによって、それを防いだ。それは決して神への捧げ物や、生贄ではなく単に廃棄であったと私は思うのです。 |
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