<明治初期〜後半 娘宿の激減→消滅の原因>
若衆仲間は二十人、三十人とあるわけだが、娘仲間は女工・女中などの出稼ぎ、子守、女廊などに売られたりで、娘分として残るのはせいぜい十人か、十五人ぐらいであり、そのうちから二、三人は結婚して脱退するから、若衆組に比すると人数は少なくなる。それが娘宿が激減し、消滅して行った原因であった。絶対数からいえば、常に娘の数は、若衆よりも少なかったわけで、したがって争奪も激しいし、他所のムラへ遠征することにもなる。また山村とか小さいムラになると娘だけでなく、後家、女中、子守まで加え、それでも不足すれば嫁などまで開放することになった。こうなると、娘宿は成立せず、女の講中が代わって出現する。したがって、(一部を除き)娘宿というのは急速に減退した。
<明治時代 若衆仲間(ムラの組織のひとつ)の第一次的解体要因>
貧農や小作人との対抗のため、ムラの地主たちが郡、あるいは県段階で結合するようになる。地域的、地方的横断組織が発達してくると、すぐに影響が大きくでたのは結婚である。それまででも富農の間では村外婚が普及していたけれども、一般的には村内婚が多かった。こうして地縁的関係よりも経済的関係が優先されるようになると、村外婚が多くならざるをえない。それに明治政府の地方自治制度創出で戸長、村長などの格ができ、次に村会議員、群会議員、県会議員が出現し、ムラムラの家の格が明確になってきた。ほぼ同格の家と縁組みするのに適当な基準が、政府によって公式に作られたのである。そこで富農や地主層は村外婚、一般農民や水呑み層は村内婚と分化が進んだ。
村外婚をねらっているような家では、娘を密封し、「夜這い」から離脱させる。教育勅語を盾にして貞操を守らせる方が、高く売り出せるからだ。男の方も京都、東京などへ遊学させることが流行し、そのうち地方にも中学校が建てられ、かれらの希望を満たすことになる。どこのムラにでも「ハカマギ」(袴着)の二人や三人できることになり、ムラの若衆から敬遠され、排除するムラが多くなった。昔は全的機能をもっていた若衆仲間は、こうして富農層の子弟を男女とも除外するようになる。
これが若衆仲間の第一次的解体要因であり、後に若衆組の経験がない富農層の子弟が、ムラの指導者となって若衆組を支配し、利用するようになる基を作った。
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