無文字文化とは民俗学の世界でよく言われるが、その本質がよくわからなかった。今、ケルトと縄文というテーマでさまざまな事を調べている中でこの無文字文化に該当する考え方があった。
ケルトも日本(縄文)も同様に文字を持たない文化であり、かなり高度な文明を育んでいる。そして共通項がたくさんあり、共に豊かな森林の文化であり、その中で長くアニミズムを基にした自然崇拝をもっている。共に中央(いわゆる文明地域)から見れば辺境に位置しており、長く中央の影響を受けずに独自の文化を育てていった。
そして共に文字を入れた後も言霊信仰が残った。文字や言葉を発する事でそれが現実になる。悪い言葉ならそれに縛られて悪い事が現実になる。、だから言葉を選び、簡単には言葉や文字として固定しない。
ケルトも縄文も、アイヌも文字を持たない社会では豊かな口承文化が存在した。長い説話、様々な物語で何世代にも渡り認識が伝えられた。
彼らは文字を持つ事ができたにも関わらず、文字を敢えて持たなかったと言われている。その理由はこうではないか?
人類社会は常に後世に必要な事を伝えていく。これは文字社会も無文字社会も同様である。
さらに伝える中身には2種類ある。記録や数字といった固定的なもの。もう一つは対象の捉まえかたや同化の方法。それは物事の捉え方だったり、心の有り様である。人間と自然との関係や、自然(精霊)を捉える時に必要な精神状態などを指している。
文字は前者を伝える事ができるが、後者を伝えるには不十分である。文字は枝葉は正確に伝えるが、全体としてこうである、こう見るべきという認識を伝えるには適していない。なぜならば文字は固定的、限定的で極論すれば法律のようなものだからである。
口承の物語、音楽、絵画、造形物、それら全て、伝える目的は対象世界の捉え方であり、固定的ではなく総合的な認識力を持って受け入れる種類の認識群である。いわば言葉では表現できない内容なのだ。
しかし、それが最も大事であり、何らかの方法で必ず伝えていかなくてはいけない事だった。
物語や音楽や芸術を通じて何を受け取るか、受け取る側が想像力を働かせて入れていく能動性があって初めて成立するのが古来の伝承文化なのだろう。それが現代の一方的な”伝達”とは異なる、相互交信のある”伝承”の中身だと思う。文字を持ってしまうことでそれらの能力が錆び付いていく。無文字文化の集団はそういう危機感をもっていたのではないか。
これは何も古来だけの話ではない。私達も特に文字社会に慣れ親しみ、全てを文字化できると思わされているが、本当に必要な事は文字以外で伝え
て捉えていく必要がある。対面で語りかける言葉であり、それを受け取る中で発生する創造性である。 |
|