実現論:序2(下) 私権時代から共認時代への大転換リンク
上の投稿を読んで、改めて現代を生きる私たちには確固たる目標、あるいはそう思い込まされてきた指標がなくなったのだと感じました。
私権というモノの正体は、人々を支配した大きな“物語”だったのだとも感じます。
それに拘らなくなれば、現代を生きる私たちはもっと楽しく未来を考えることができるのに。
「どうすればいいのかわからない・・・」
「こうしておけば安心・・・」
「みんなそうしているし・・・」
そういった不全あるいは、考えないという思考・行為・選択が現代の若者の間を中心に蔓延している状況は、私権という大きな物語の喪失が起因しているのではないか?と常々感じていました。それは根本的な意味を特に問わなくても、進む道がわかりやすかったからだろうと推察されます。言い方を変えれば、“手軽”だったのだろうと思います。
飢餓の圧力が残存していた時代においては、この状況が受け入れられていたことも理解できます。しかし、70年代以降の私権に執着する事態には、首を傾げざるを得ません。そこに目を背け続ける限り、次なる可能性を開くことは困難です。
すでにこのことに気づき、考え、動き出している人は多くいます。
でも、まだまだ少数であることも事実です。
おそらく、この状況を突破するには大きな物語の喪失を受け入れること、時代の変化に潜在している深層を探ることが第一なのではないかと思います。
特に考えなくても察知できる人もいますが、多くの人がそこに簡単に気づくことは困難です。なぜなら、根本を捉え直せるということに気づいていないからです。
そのことにたくさんの人が気づくことができたならば、これからの勉強・学びの意味も大きく変わることは必至です。
大きな物語に翻弄されるのではなく、事実を真っ直ぐ見据える覚悟が今求められているだろうと思います。 |
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