平野さんの「縄文→弥生で集団の統合様式は変化したのか?」(27552)の提案について考えたいと思います。
>こうして日本では「上部構造は容易に転換するが、下部構造はなかなか変わらない」という構図が定着していきます。(平野さん27242)
中村先生も27652で引用されている平野さんの投稿の通り、上から押しつけられた体制・制度も庶民層にはなかなか浸透しないようです。いかに縄文体質が後世まで残存しているか、弥生以降も含めて見たいと思います。
まず西日本について。
2000年前には部族連合国家が乱立し、力による覇権争いが始まっています。最初の統一国家邪馬台国の王卑弥呼は、各部族の間から選挙に近い形で選ばれ、強制的色彩は薄く、しかも巫女であった。武力による強制的・一元的統合国家ではあるが、他方各部族とも自治制は高く、統合のためには軍事より占い信仰が上位に立つ構造(いわゆる祭政一致の政治形態)を示しています。血縁関係にはない被支配部族をも含めた統合のためには、それまでの自然的精霊信仰を一気に統合する守護神を設定し、共認統合軸にする必要があったのでしょう。道教=天の概念を統合軸として、天の命令を全うするものとしての巫女を、女王に祭り上げ利用したと考えられます。
しかし被支配層には、あくまで武力を背景にした租税制という収奪制度がとられます。大人・下戸・生口(奴隷)の身分制や、卑弥呼が死んだとき奴婢100余人を殉葬したともされています。ただ氏族共同体の単位は崩れておらず、土地も共有され共同耕作されていました。婚姻制も支配層は妻問婚(母系制の上位集中婚)が行われているが、庶民層は縄文以来の集団婚が続けられています。
大和政権の646年「改新の詔」が発布され、班田収受法と統一税制が施行されます。徴税の必要から戸籍が統一され、ここに徴税単位が集団から複合的大家族(戸主をはじめ20人程度からなり、内部は2〜3の単婚家族に細分化されている行政的な単位)に移行します。そして父系継承を前提とした一対婚が法律によって定められますが、家屋財産の継承をはじめ経済的な実態は母系集団によって支えらており、母系制を基盤とする集団婚は続けられています。
743年(奈良時代)に「墾田永年私財法」が発布され土地の私有化が拡大、そして12世紀末(平安時代末期)には農民の小作権が世襲制に組み直されたことから、農民の土地に対する私有意識も本格的なものになり、財産の父系継承という一対婚の土台が形成されます。母系的生活単位は解体され一対婚が実態を伴ったものへ移行していきますが、夜這いという集団婚は継続され、生涯固定の観念も希薄で、くっついたり離れたり、実状は重婚というような状態が江戸末期まで続きます。このように庶民層の私有意識は800年間に過ぎないと言えます。
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