『古代天皇家と日本正史(著:中丸薫)』の「第1章 聖徳太子は仏教ではなくペルシャ・ゾロアスター教の人」から転載します。
聖徳太子に関する逸話は、西アジアの文化・ペルシャ文化・ゾロアスター教が強く影響していとのことである。存在を疑われる太子であるが、この逸話を作った当時の書紀編纂者の意図が見える。そして、このもともと、藤原氏の政敵であり、かつ、理想であった、蘇我氏の功績を集約したものが太子像であると考えるならば、当時の最先端の観念が理解でき、蘇我氏の出自も特定できるかもしれない。
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●聖徳太子と法隆寺の秘密が歴史観を一変させる
日本史上県も有名な人物、それは聖徳太子であろう。しかし、聖徳太子の真の姿は、われわれがこれまで抱いてきたイメージとは180度違う。いや、聖徳太子だけでなく日本古代史の常識そのものが、本番の論考において完全にくつがえされる。『古事記』『日本書紀』の「記紀」によって、闇の権力者が永遠に封印したはずの、日本人のアイデンティティを一変させるほどの秘密を解き明かすのに、聖徳太子ほど適任の人物はいない。
斑鳩という地名には、想像以上にペルシャ的な意味があるのをご存知だろうか。
斑鳩は、「斑(まだら)の鳥」を意味する。この伝説的な鳥は、ペルシャの女神の使いと考えられていた。烏をトーテムとする考え方は、古代のペルシャやフランスに見られるが、蘇我氏の権力から離れたこの地を中心に、新しい国の建設に励んだ聖徳太子が、このようなベルシャ的な地名を選んだのもけっして偶然ではない。
その斑鳩に立つ法隆寺。とりわけ聖徳太子にゆかりの深い夢殿は、実は本来の寺院の一角ではなく、太子の宮殿のあった場所に建てられている。夢殿には、生前の聖徳太子をモデルにした、1メートル80センチ近い長身にして面長の救世観音が安置されている。この像こそ明治時代まで「秘仏」として隠されてきた、まさにその像である。
救世観音像は、その光背が火炎であり、手に持つ宝珠(ほうじゅ)も火炎状である.
八角形の神殿の中で聖火が燃えているという設定は、拝火教(ゾロアスター教)の伝統に沿うものと言わざるを得ない。つまり、太子はゾロアスター教の神殿の中で、ゾロアスター教の神として祭られていることになる。これでは1000年以上も「秘仏」として隠されてきたのも無理からぬことであろう。
法隆寺金堂の天蓋に見える忍冬唐草文様(にんとうからくさもんよう)もまた中近東起源であり、ペルシャから高句麗を通って日本に伝わったものである。金堂、中門、回廊の柱の中央にふくらみを持たせる様式の「エンタシス」は、ギリシャ神殿で有名であるが、やはり中近東起源である。
法隆寺の瓦および周辺の古墳にも、シルクロードの終点としての特異性が見られる。
さらに獅子狩文様錦(ししかりもんようきん)は、ペルシャ文化そのものだし、香木には、ペルシャ系の民族ソグド人のソグド語とササン朝ペルシャの文字であるパフラヴィー語が刻まれている。ソグド人は、ユーラシア大陸を広く交易してまわり、7世紀には高句麗の黒龍江まで来ていた。
黒龍江というと、遠い地のように聞こえるが、実は日本列島とは目と鼻の先に等しい。当時の日本海には渡嶋と総称された、まだ沈没する前の島々が佐渡島の北西に点在しており、高句麗と日本列島は直結していたのである。そうしたこともあって、高句麗人は、絶えず日本海を渡って、波来していた。
旧満州の北部に位置する黒龍江省を代表する大都市ハルビン市は、気候的には厳しいが、ロシア的な市街があり、外国人も多く、非常に国際的な雰囲気が満ちている。八ルビン市内と周辺の村落では、中華人民共和国でありながらも、朝鮮語が使用されているのだが、これはこの地が古代の高句麗の時代あるいはそれ以前から、朝鮮族の居住地だった名残りである。
西アジアの文化は、古代の新羅に伝わり、それが、日本海の航路によって列島にもたらされたものと見られる。これはかつて地中海が重要な内海として、ヨーロッパから中近東にかけての沿岸地域に二つの巨大な文化圏を形成させたのと非常によく似ている。
歴史の常識では、シルクロードを通って、様々な物資が日本に運ばれたことになっている。シルクロードという呼称は、中国の絹の取引がされていたことに由来するのだが、実は、この交易路とは別に、いくつかの分岐路があったのである。
そのひとつが、最近のロシアなどの研究で広く知られるようになってきた「北の草原ルート(ステップルート)」と呼ばれる交易路で、日本海沿岸や黒龍江地域から、このルートを西に直進すれば、かつてスキタイ人(後述)が活躍した中央アジアのステップ地帯を通って、地中海地域にまで出られるのである。草原ルートの最大のメリットは、砂漠地帯を迂回できること、そして何よりも中国に干渉されることなしに通行できることだった。中国には見られないペルシャなど西アジアからの文物が、日本で多く発見されているのは、こうした理由によるものである。
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