〔男たちは幻想を失い、ニヒリズムに陥った〕
この点では実は同世代に生きていた我々も大差ない。
我々の世代は方向を見失っていく。
ある者は、その反動として刹那的刺激へとエスカレートさせる。彼氏彼女関係は男にとっても単なるファッションとしての位置にまで転落した。そして残された満たされない男の幻想欠乏はやがてドラッグへ、さらにはコスプレに向かい、イメージは更なる倒錯度を深めていく。
多数派たちは女に対してそれなりに付き合いながら幻想充足(性幻想と征服欲)が満たされない分、やがて、女たちに対してメンドウくさい、煩わしい(だからあれは女じゃない)という感覚を増大させていく。
そして、そんなマイナス意識が先立つうちに、そのマイナス意識はやがて女に対する否定の言葉となって意識化され、女たちに対する不信感や、女に対して向かう気持ち自体を希薄にしていき、いずれその状態は、それが正しい、当たり前との観念で正当化されていく。
「男・女(性的関係)の前にまず人間として見る」「セックスレスでも仲がよい」etc、そんな男たちの言い訳は、今までの男の独占欲・支配欲からくる性に対して警戒心を持ってしまった女にとっても都合が良かったらしい。
〔聖なき時代の性〕
そして、今やセックスレス化しているのは、特殊な男だけではない。一見女を忌避していない男や傍目に見れば仲のいい夫婦(カップル)がセックスレス化している。だがこの問題もおそらく男のオタク化の延長上にあるのではないか。
現在の若い世代は、(中学生や高校生を見てつくづくそう思うが)、明らかに女は元気で男は圧倒されつづけている。つまり女上位はほぼ子供の頃から肉体的に思い知らされつづけている。当然男にとって女は思い通りになる存在とは程遠い。つまり男の性欲をかき立てる女像は、もはや幻想の世界にさえイメージできない。
とすれば、後は少しでも新鮮味のある、刺激を求め続けるか、心にふたをしたままの義務感に基づく演技しかない。そしてこれでいいんだと自分を納得させつづけるしかない。夫婦の最低の規範である、世間の目をくらますだけの仲のよい夫婦像はそれでも演じつづけることは可能である。
男の征服欲を充足させるための男と女の共演の時代は、女が男の幻想に付き合うのをやめたことによって、終わりを遂げた。
女教信仰はここにおいてようやく終焉のときを迎えた。
しかし男と女はようやくスタートラインに立つことができたともいえる。
幻想から覚めてありのままの男と女に戻れる、そんな時代がようやく来たような気がする。
今、多くの若者が、そんな自我幻想的な性を捨て去り、もっと奥の心の充足を求め始めたことは、その大きな流れの一つといえるだろう。
後はそこから、新たな性(セックス)の在り様を模索して見つけてゆけばいいだけである。 |
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