清水さん、こんにちは。「清」と「穢れ」についてですが、私見を述べさせていただきます。
日本人の精神性を形作ってきた根底に、日本独特の「生活共同体」の存在とその歴史があると思います。そこでは「清」も「穢れ」も一体化されていた。神が鬼になるように「清」なるものも穢れや災いを起こすものに転化しますし、逆に「穢れ」は祓うことにより清なるものに転化します。後代神道が生活の場から離れて思想性を強めるにしたがって、穢れを分離し、清なるものへと変質していきますが、逆説的にみれば「生活の場に密着した存在であれば、この変質は起こらなかった」ともいえるかと思います。
「家庭という清なるゾーン」を生んだものがあるとしたら、それは日本人の民族性、精神性ではなく、「既得権として守られるべきもの」「要求する権利」など私権を前提にした私権絶対の価値観なのではないでしょうか。このことは、「家庭という清なるゾーン」という考え方自体が、本来「生活共同体」によって培われた日本人の民族性から見ると矛盾であり、言い換えると砂上の楼閣でしかないということを示しているかと思います。 |
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