リズムには民族性・地域性があるというのは、みんな経験的に分かっていることですが、リズムとは、共同体の成員が一致団結しなければ生きていけないという外圧状況の結果生まれたもの、という視点はなるほどです。
リズムは、共同体の成員相互の関係性のあり方を示しているんですね。
未来部族「リズムの発生」より引用リンク
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民族音楽学者の小泉文夫という人が書いた「音楽の根源にあるもの」(平凡社ライブラリー)の中に、こんな話が出てくる。
カナダでカリブーを捕って食べているエスキモーと、アラスカの鯨を捕って食べているエスキモーを比べるとリズム感が全然違っている。カリブー文化に属するエスキモーはどれも2人以上で一緒に歌えないのだが、後者は複数の人でぴったりとリズムを合わせて歌うことができる。この理由として小泉さんは、一つには後者は海の近くに住んでいて流木(ヘリにする)やセイウチの胃袋(皮)で太鼓を作ることができ、それでリズムをとるということをあげている。そしてもう一つの理由は、鯨は共同体全員で心を一つにして協力しあわないとつかまらないが、カリブー猟は基本的に一人でするものだからなのではないかという。
「人間だからだれでもいっしょに歌うことができるとかリズム感が初めからあるのだというのじゃなくて、人間はいっしょに力を合わせて、食べ物を、えさを探さないと死んでしまうから、必然的にそういうリズムを獲得するようになったと考えたほうがよさそう」であるというのだ。
さらに、熱帯のスリランカに住むベッダという、裸で野山を歩き猪などを捕らえて暮らしている狩猟民の例が出てくる。彼らはやはり単独で猟をする。仲間意識は強く一緒にうたうこともあるのだが、その場合でもひとりひとりがそれぞれに「自分の歌」を歌うということしかしないのだという。
そしていろんな社会(バリ島とかアフリカの宮廷音楽とか)を見てみると、音楽の構造には社会構造が如実に反映しているということがわかってくる。たとえばユニゾンというのはハーモニーよりも後のもので、王のような権力者がいてそれにぴったり合わせる必要から生まれるのだというような。
リズムというのはヒトにとって本源的なものだと僕は思っているのだが、身体に内在する「リズムへの志向」がどのような形であらわれてくるかは、どんな風に食べ物を確保し暮らしを営んでいるか、そしてそれに基づく成員相互の関係性のあり方にかかわってくるということになる。
縄文の遺跡では、有孔鍔付土器という口が平らで縁に穴が並んだ土器が出土する。おそらくそれに皮を張って太鼓として用い(異説もあるが)、リズムをとって皆で「まつり」を行なっていたことだろう。ドングリを主食にし海岸部では漁労も営んでいたという彼らのリズム感は、いったいどんなふうであったのだろうか(まさかゴアトランスの四つ打ち?あるいはすさまじいポリリズム?)。海岸部と山間部(おそらく今のマタギに連なる山人の系譜)ではまつりのあり方やリズム感はどのように違っていたのだろうか。こういう疑問が次から次へと湧いてくるのだが・・・残念ながら小泉さんはもうこの世にはいないのだった。
(引用終わり) |
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