【百済の会アカデミー:歴史講座「百済と百済王」】の『第1部半島古代史の中の百済 百済の成立と三国時代(リンク)』より転載します。このシリーズは膨大な資料で、その中から抜粋してご紹介します。
特に、朝鮮半島の歴史は、日本の属国意識を解明する為には、必要不可欠で、まずは、ツングース系と言われる高句麗の成立の歴史をご紹介します。北の遊牧騎馬民族(ツングース系)扶余の南下に対抗して立てられた朱蒙(チュモン)の高句麗は、強大な勢力をもつようになり、朝鮮半島の北部をまとめていきます。中国との関係を保ちつつ繁栄しましたが、最後はその中国に滅ぼされました。その間、この高句麗に半島南部の諸国は悩まされることになります。
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(1)高句麗の成立
百済の成立は高句麗が前提になっていると考えられるでしょう。漢の武帝は滅ぼした衛氏朝鮮の地に、真番郡、臨屯郡、玄菟郡、楽浪郡の4郡を設置して朝鮮半島を支配しようとしました。しかし原住民の抵抗が強くてBC82年には真番、臨屯の2郡を廃止し、またBC82年以降は玄菟郡の根拠地を西北方に移さざるを得なくなります。そして楽浪郡だけが半島に残ることになりました。
@朱蒙の高句麗建国
中国では武帝の死後、前漢の勢力が衰え始めました。楽浪郡などによる朝鮮半島の支配も弱くなり、朝鮮半島の北方にはツングース族の扶余、高句麗、沃沮などが、南方には韓族の馬韓、辰韓、弁韓などの部族連合体が興ります。この中で特に大きな成長を遂げたのが高句麗でした。その始祖を朱蒙と言います。朱蒙について高句麗の神話の中に次のような話があります。「川の神である河伯の娘の柳花は、天帝の子の解慕漱(ヘモス)と出会って結ばれるが、親の許しなく結婚したために東扶余に流される。東扶余王の金蛙(クマ)の所へ辿り着いた柳花は、身ごもって大きな卵を産んだ。やがて一人の子が卵の殻を破って出てきた。顔立ち、体格が優れ、智恵があり、7歳にして弓を作り、矢を射れば百発百中で外すことがなかった。よく矢を射る者を朱蒙と言ったので、それを名前にした。金蛙の息子たちは朱蒙に嫉妬して殺そうとしたが、朱蒙は柳花の助けでいち早く逃げ出し、卒本に着いてそこで高句麗を建てた。」
ここに登場する卒本は現在の中国遼寧省の桓仁市と推定されており、三国史記によれば建国はBC37年のこととされています。
A 成長と服属
BC75年に首都が国内城から西北方の永陵に移された玄菟郡(第2玄菟郡)の一つの県として高句麗県が登場します。高句麗県は高句麗人の居住地で鴨緑江の中流域に当たるところです。玄菟郡では最も文化的・社会的に発展していた地域で、ここに朱蒙(東明王)がBC37年に高句麗を建てたのですが、これは北方の扶余の勢力が高句麗に進出してきたこと、扶余族が南下してきたを意味するでしょう。
高句麗は49年には長駆中国の山西省太原にまで侵入し、118年以降には貊、馬韓などの周囲の諸族を糾合して、玄菟・遼東両郡や扶余と戦い、東方諸族の盟主的な存在となりました。また132年には遼東郡から楽浪郡に通じる要衝の西安平県を攻撃し、赴任途上の帯方郡令を殺害し、楽浪太守の妻子を捕らえました。このように1〜2世紀にかけての高句麗は、強大な後漢の玄菟郡・遼東郡をしばしば攻撃しましたが、190年頃遼東太守であった公孫度が、後漢の混乱に乗じて自立し高句麗を服属させてしまいました。
B 発展期そして三国時代へ
高句麗の首都が卒本から集安の国内城に移った年次は定かではありませんが、三国志では204年としています。紀元後3年という説もありますが204年が妥当でしょう。高句麗を構成していた旧小国の王子たちが、山上王を擁立して王位に付けました。王の兄の発岐が旧小国の一部と結んで公孫氏に降ったので、山上王は王都を国内城に移したのです。この頃公孫氏は強大になり楽浪郡を支配し、更に朝鮮南部に勢力を伸ばすために帯方郡を設置しました。しかし、220年に後漢が滅び、中国は魏・呉・蜀の三国時代を迎えます。高句麗は公孫氏にならって魏と呉に両属していましたが、魏はこれを嫌い、238年に楽浪・帯方の2郡を復興し公孫氏を滅ぼします。244年、中国魏の武将母丘倹(カンキュウケン)が高句麗遠征に着手し、東川王を破って首都丸都城を攻略しました。更に245年にも高句麗を攻めて粛慎まで追い込みます。東川王には貴族の援護がなくわずかな従者と共に落ち延びます。これによって高句麗の勢力は著しく減退し、東方(東夷)諸族が高句麗の支配下から中国の支配下に入りました。
しかし中国の晋が衰えると、美川王はしばしば遼東郡に出兵し、311年には西安平県を陥れて遼東郡と楽浪・帯方両郡の通路を断ち切ったので、313年には晋は楽浪郡を放棄せざるを得ませんでした。翌314年高句麗は馬韓・辰韓と共に帯方郡を滅ぼし、平壌方面に勢力を伸ばしました。
中国が五胡十六国の戦乱時代に入ってからは高句麗への亡命者が相次ぎ、それらから新しい文化をもたらされた高句麗は、国政を整え軍備を拡張して積極的な外交を進めました。
339,342年と再度に渡って中国の前燕が高句麗を侵略し、故国原王は単身東方に逃れました。その後高句麗は前燕に臣従して、355年には故国原王は高句麗王に冊封されています。この冊封は前燕が華北に進出するためのものでしたが、中国王朝が外臣に内臣と同様の称号を与えた最初のものであり、朝鮮半島の王が中国王朝より冊封を受ける始まりでもありました。
この故国原王が369年に百済を攻めますが失敗し、371年には百済軍に平壌を攻められて王は戦死してしまいます。この時から半島三国の抗争が激化する三国時代に入ったと言えるでしょうが、この後、広開土王(391〜412)長寿王(413〜491)と続く時代に高句麗は最盛期を迎えることになります。
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