●思考の枠を広げられるかどうかを左右するのは、眼前の未明問題に対して突っ込んでゆくか、逃げるかである。誰しも突っ込んでゆくのは怖いものだが、それでも尚、突っ込んでゆくのは実現可能性が感じられるかどうかにかかっている。
以下、岡田淳三郎氏の個人的体験から云えることである。
今ではどんな問題でも答は出せる(問題によって答を出すために要する時間が違うだけ)と思っている。ところが、理論追求を始めた頃は、新しい時代の実現可能性を感じ取って旧観念に対する違和感は意識したものの、答などあるはずがなかった。そこで実現可能性の直観だけに導かれて、実現イメージなどない真っ暗闇の中で追求過程に入っていった。
その原点は子供の頃のの模型作り(もちろんプラモデルなどではなく、限られた材料をかぎられた道具で加工する)にあるように思う。そこで使われていたのは工夫思考の回路である。そこには正解はない。常に壁にぶつかるが、常に「何か方法があるはず」と工夫を重ねていた。いわば工夫思考の成功体験が原点にある。
経営者も、人材・組織問題であれ営業問題であれ、どうする?と考える時は工夫思考の回路を使っているのではないか。そこでも、彼らがどんな問題であれ諦めずに答を出せるのは、何らかの答を出せるはずと思うからであり、それは幼少期の工夫思考の成功体験の蓄積による所が大きいのではないだろうか。
理論追求過程でも使っているのは幼少期に形成された工夫思考の回路のように思う。例えば、理論上の問題が10個あるとして、そのうちの8個までは収まったが、残り2個が収まらないとなると、論理全体を組み変えなければならない。これは模型作りの工夫思考と同じである。
但し、理論追求を始めた時に直観した時代の可能性をキャッチすることと、幼少期の工夫思考の成功体験がどう繋がっているのかは解明不十分のまま残っている。
●これはゼロからの創造過程の問題であり、大多数の人が直面している課題において、どう思考の枠を広げるかという問題はそれより簡単である。
実現イメージをつくるのは自分の力ではできないとしても、そこには先輩や周囲の人がいて既に半答えを出してくれている。それを素直に受け入れるだけで、思考の枠が広がってゆく。
大多数が素直に事実を認める中にあって、素直に認めない者は自我発(反みんな)で観念武装しているタイプである。観念武装の中身は近代思想で、昔からこういうタイプはどこにでも少数はいたが、'70年以降自我発の観念武装タイプは近代思想が生命力を失うのに伴って衰弱する一方である。'02年に顕在化した収束不全→共認収束の大潮流が顕在化して以降は、さらに急速に減る一方であり、今残っている連中も風前の灯火である。放っておいても近い将来には消えてゆく存在である。
素直でない者に対しては今や「お前は本当に仲間なのか?」が問われる段階に来ている。仲間であるなら素直になれ、あくまで己の狭い思考にしがみつくのであれば消えろという圧力が既に強く働いている。
つまり、こういう後ろ向きな人材をどうするかという問題は、終末期を迎えている。ほとんどの人材が充足基調で前進している中で、それに背を向けている人間は消えればよいのであって、そういう人材は無視してどんどん前に進んでゆけばいいのである。
素直さの欠片もない人材に対しては、大きな期待=エネルギーをかけてもその効果はほとんどなく、費用対効果で考えても不経済極まりない。後ろ向きな人材は変わるか、さもなくば消えるしかない。現実はそこまで来ているのである。10〜20年も経てばこういう人材は消滅しているであろう。
今後は素直に認識を塗り変えてゆける若い人材に対して、既存のメンバーは、狭い枠組みを取っ払える新しい認識を提示できるかどうかが問われてくる。
実現論序『共同体社会の実現に向けて』はそのための場の一つである。 |
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