>自主管理への招待(6) 実現思考とは何か
意識生産は、工業生産から画然と区別される、一つの決定的な可能性を内包している。工業生産においては、その生産力の主要な担い手は機械であって、人間の労働力は機械の付属物であるにすぎない。実際、そこでの労働課題と労働時間は、機械装置や材料の流れによって分断され、秒刻みに規定されている。それに対して、意識生産における生産力の担い手は、生身の人間の認識と実践だけである。その生産を推進してゆく生産力を、労働力(とりわけ関係能力)として自らの内に具現した意識生産者は、もはや機械を必要とせず、従ってまたその所有者を必要としない。(211502)
工業生産は機械により大量生産を行い、生産コストを抑えるという生産様式です。生産の主役は機械で、そこで働く労働者は機械の一部に過ぎないため人件費も生産コストとしてカウントされます。
この生産様式の下では、労働者は主体性をもって働くことは出来ず、労働というものは苦役になり、活力源は苦役の対価としてのお金だけになります。
それに対して意識生産は、生身の人間の認識をもって生産を担えるので、資本に仕えることなく、主体性をもって仕事に取り組み、仕事自体に充足を求めることが出来ます。
そして意識生産の時代になった今、かつての工業生産も様変わりしてきています。それは、同じ工業製品を作っていても、主体性をもって仕事に取り組み、仕事から充足得ること無しには、真っ当な生産体制が維持できない状況になっているのです。
この問題を捉え、工業製品を生産しながら、仕事に対して主体性と充足を取り戻している企業も出てきています。例えば、アイタックルという企業では、生産過程にかつての生産ライン的なものは設けず、手作業で最初から最後まで人が主導して製品を完成させます。
このうに、生産を分断しないことで労働の切り売りではない達成感が得られます。また、種別の受注量のかたよりも仲間同士で連携して生産計画を練り、生産調整することも出来ます。加えて、これらの製品の客先評価を、営業を通じで肌で感じることが出来るような体制もとっています。
これら事例から、現在すでに意識生産の時代に完全移行しており、この時代にふさわしい、人間の主体性の発揮や、相手の期待に応えることが出来る仕組みが無い限り、工業生産すら成り立たなくなっていると見ることが出来ます。
このためか、工業製品の生産を担っていて元気のある企業は、会社規模も小さく、機械への投資も少なく、なるべく生産ラインをなくし、さまざまな生産に関する工夫(主体性の発揮)が出来る仕組みを持っていることがわかります。
大量生産によるコストダウンを元にした収益アップという過去の方法からすると、非効率きわまりないのですが、働く人の活力を考えると当然のことだともいえます。
このような状況を見ていると、工業製品の生産を担っている会社は工業生産の原理に沿って経営を行う必要があるという考えも、固定観念になりつつあるのかもしれません。 |
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