「楢崎皐月氏のカタカムナ説(1)宇宙から素粒子に至るまで、万象は共通構造(相似象)を示す( 255819 )」より、上古代人は直感性能に優れていたという内容の記述がありました。上古代人が何故そのような性能を持っていたのか調べてみました。
民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)の研究の中で、彼は人間の思考能力を「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えています。古代人の思考の特徴もこの二つの思考能力をもって説明しようとしています。
文化人類学者の中沢新一が折口信夫について書いた書籍の内容が掲載されているサイトから転載します。( リンク )
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折口信夫は人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているように見えるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能」であり、折口自身は自分は「類化性能」がとても発達していると語っていた。この言い方をとおして、彼は「古代人」の思考の特徴をしめそうとしていた。近代人は「別化性能」を異常に発達させた。
そしてその傾向はすでに、奈良朝からはじまっていた。ところが、「古代人」たちの精神生活は、「類化性能」を存分に生かしながらかたちづくられていた。「類化性能」とは、いまの言い方をすれば「アナロジー(類似)」のことであり、詩のことばなどが活用する「比喩」の能力が、それにあたる。ひとつのものごとを別のものと重ね合わすことによって、意味を発生させるやりかたである。この能力が発揮されると、音や形や意味やイメージのあいだにある「類似=どこか似ている」という感覚をもとにして、ふつうなら離れたところに分離されてあるようなものごと同士が、ひとつに結びあわされて、新しいイメージをつくりだしていくようになる。
このやり方で森羅万象のできごとを見直していくと、月と女性は「似ている」ということになり(どちらも周期的に満ちたり欠けたりする)、蛇と結びつけられ(昔の人は、蛇が脱皮を繰り返すことによって、死と再生を繰り返し生きている、と考えた)、湿気や水と結びついていくようになる。そこから、「水辺に立つ神聖な女性」という存在が考えられるようになる。ところが、奈良朝の知識人のような「近代人」には、その思考法がよく理解できていないから、「みずはのめ」は不気味な妖怪になってしまう。
折口信夫の考える「古代人」はこのようなアナロジーの思考法を駆使して、森羅万象を「象徴の森」で覆いつくそうとしたのである。現代の考古学は、そういう「比喩」が獲得されることによって、わたしたちホモサピエンスが出現したと考えている。つまり、折口の言う「類化性能」こそが、現在の人類の心を生みだしたものであり、その「類化性能」によって世界をとらえる能力を発達させていたのが「古代人」であったとすると、折口信夫の「古代」という概念は、じつはおそろしいほどに深い時間の深度をもっていることがわかる。その概念は、奈良朝を突き抜け、古墳時代を突き抜け、弥生時代を突き抜け、縄文時代にまで達する、大きな射程をもっている。それどころか、旧石器時代に現在の人類の心が生まれた、その最初の場面にまで触れようとしている。折口信夫がはじめようとした学問は、その意味では、未来に属する学問なのだと言える。
<転載終わり>
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「別化性能(=異化)」と「類化性能(=同化)」と捉える事が出来ます。古代人が自然現象の背後に精霊を措定できたのも、古代人の身の回りで起こるあらゆる現象から共通項を見出そうとした結果かも知れません。
※参考投稿
異化という近代科学の思考法( 171141 ) |
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