前回の和島家族論を要約すれば、集団婚を経て対偶婚、家父長制大家族、そして小家族へ、というのが原初的な家族の大まかな発展の図式であり、そこには『家族・私有財産・国家の起源』におけるF・エンゲルスの、「血縁家族―プナルア家族―対偶婚家族―家父長制家族―一夫一婦制家族」という進化主義的家族観の強い影響がうかがえます。
註:プナルア家族とは?
「群れが生活手段のために、より小さい諸集団に分解せざるをえなくなると、群れは、乱婚から血族家族にならなければならなかったが、血族家族は最初の「組織された社会形式」である。この血族家族とは、プナルア家族である。その集団は、数人の兄弟たちとその妻たちからなるものと、数人の姉妹たちとその夫たちからなる集団である。つまり、血縁の兄弟たちと姉妹たちとの婚姻関係の排除から、このような婚姻関係の集団が形成されたのである。この家族は、一つの家に住むような家族ではない。」
一方、水野正好の家族・婚姻観の輪郭は、かれの最初の試論、『縄文式文化期における集落構造と宗教構造』の中にすでに明確な形、つまり、「二棟一家族論」と「三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論」」として現れており、水野集落論全体を貫く基本的なモティーフとして今日へと続いています。
水野の家族論の特徴は、次のように要約できます。
1・縄文時代では集団婚が支配的であるとした和島に対し、同居制にもとづく、おそらくは単婚的な「小家族」がすでに登場をみていた可能性が指摘されています。しかも、「性別ないし機能集団」としての性格も考慮されています。この「小家族」は二軒の住居を一単位として成立するものであったことを、与助尾根集落におけるいわゆる「小群」の分析結果にもとづいて明らかにしたのです。
2・二軒を単位とする「小家族」のさらに上位には、埋葬・消費・政治の基本単位としての「家族」が存在していた可能性を、六軒の住居、つまり三小群から構成される「大群」との関連において指摘しました。
3・こうした三小家族―六軒の住居を包摂する「家族」すなわち「大群」は、東群と西群の併存現象にもうかがわれるように与助尾根では合計二群存在し、両群が一体となって「部族」としての「集落」全体を構成するという、立体的な縄文集落像を呈示したのです。
4・集落―大群―小群という重層的な群構成と部族―家族―(単婚?)小家族(または性別ないし機能集団)というレベルの異なる社会集団とを重ね合わせた水野は、続けて与助尾根における祭式を集落そのものに基盤を置く「広場祭式」、集落〜大群間に基盤を置く「葬送祭式」、大群〜小群間に基盤を置く「石柱・石棒・土偶祭式」の三類に分類し、全体として与助尾根の集落構造と宗教構造とを一体的に復元しようとしたのです。
5・住居出土の特殊な付属施設をもとに措定した大群〜小群間に基盤を置く各祭式の性格を、狩猟神・祖家神にもとづく男性祭式としての石柱祭式、性神・成育神にもとづく同じく男性祭式としての石棒祭式、穀神・母神にもとづく女性祭式としての土偶祭式としてそれぞれ位置づけ、内容・形態を異にする以上の各祭式が各小群に分掌されるという、祭祀論に大きく立脚した特異な家族像を想定しています。これが「三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論」なのです。
和島が水野の家族および集落論をどのように評価していたのか、現在残されている資料からは不鮮明です。しかし、一集落内部が男性と女性、それに長老の属するグループの三者によって分割居住されていた、という和島の発言は、水野の第5点をふまえており、集落論第二世代の登場が先行する和島に与えることになった影響は決して小さくないようです。しかし和島にとっては、水野のいう「小群」は、単婚的な「小家族」ではなく、あくまでも「性別ないし機能集団」的な性格をもつ限りにおいて確かな意味をもつものであり、ここに縄文時代の家族論についての、二人の固有の姿勢がうきぼりにされています。 |
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