佐々木藤雄氏の「水野集落論と弥生時代集落論」という論文を参照しながら、和島家族論の全体像をまとめてみると、
1・資源の集団的な所有と集団婚の基礎の上に立つ縄文時代には、集落自体が母系的な氏族共同体的性格をおびた一つの「強固な統一体」として存在し、住居の配置から生産・祭祀・埋葬の各面にわたる強い規制力を発揮する、と言うのです。
2・このような、いわば「自然発生的な血縁集団」の内部では、独立的な小家族の形成は困難。「同じ棟の下に一つの炉を囲んで住む一団の人々」はあくまでも「同質の劣弱な単位」にとどまっており、わずかに生活の構成の面においてある程度の独立性を発揮しうるにすぎない、としています。
3・個々の竪穴の成員数に関する記述はあっても、成員の中味に関する具体的な説明は不明瞭です。1958年『原始集落』で、「一竪穴の成員は、ひとつの血縁集団のなかでの自然家族を単位とするものと思われる」という記述があり、この問題に関連して「男二人、女二人と一人の子供が、中毒死か何かで折り重なって倒れていた」千葉県市川市姥山遺跡B9号住居址内遺棄人骨資料の引用が行われています。しかし、1966年の『住居と集落』では、一集落内部の居住域が男性と女性、それに長老の属するグループ毎に分割されていた可能性が示され、わずかの間に見解が大きく修正されます。
4・この時期の通婚や交換関係などを通して恒常的に接触し、緊密な結びつきをみせることになった各集落は、採集経済の発展とともにやがて「地域社会」を構成するようになる、としています。こうした「小社会」が氏族の広がりを示すものなのか、それとも「部族的結合」といった存在を意味するものなのかについては詳述されていません。
5・これに対し、「父権が母権の強い抵抗をうけながら、覇権を確立しようとした時代」すなわち、一方で前代からの集団婚的な伝統を残しながら、すでに対偶婚が行われつつあった時代とされるのが続く弥生時代であり、水稲農耕の開始とその発展に伴う私有財産や萌芽的な階級分化の動きと照応するようにこれまでの氏族共同体的な関係が解体し、生産の面でも消費生活の面でも一定の独立性をもった水田経営の主体たる小集団が集落の内部に分岐するというのです。
6・「全体が一つの単位」をなす縄文時代には認められなかった、上記の「新しい小集団」こそは、数軒の住居を単位とする「世帯共同体」と呼ばれるものであり、「家族の前身」にほかならないと言います。しかしそれは、集落の構成要素としてなお「生産の統一体」たる集落全体に依存し、その規制を多く受ける立場にとどまっています。なお、この「世帯共同体」の構成員数を福岡市比恵の環溝集落の「一群」をもとに約20〜30人と見積もっています。しかし、別のところでは、登呂の東区と西区の二つの「集群」をもとに「世帯共同体」の具体的な構成を住居10軒以上、50人前後のまとまりとしてとらえています。
7・この「新しい小集団」の性格も、階級分化の進行とともに変質し、古墳時代の後半には、大小の規模を異にするいくつかの住居の集合体である「小世帯の群」が出現します。以上の「小世帯の群」こそは、下総国葛飾郡大島郷の養老5年(721年)の戸籍に示される「郷戸」の母胎となる血縁的な大家族の一単位なのです。そしてまた「それぞれの竪穴は郷戸を構成する房戸」にかかわるものであり、母系制の名残りともいうべき夫婦別居制の伝統を強く残した、家父長制的な大家族の登場の中に、「やがては更に後世の小家族発生の前奏曲」を見出しうる、というのです。 |
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