ここで、裏天皇は何を考えていたのか? そもそも、裏天皇とは何者か?
現時点での仮説を提示する。
弥生時代以降、さまざまな支配勢力が争いを繰り返してきた結果、初期の皇統は入り乱れ、当然、天皇家の血筋は変わってきた。時代が下って鎌倉〜室町時代には南北朝が争っている。しかし、裏天皇は、これら江戸時代以前の覇権闘争とは関係がないはずである。
∵江戸期、徳川政権下では、天皇家はほとんど無力であり、各大名家も天皇家とは無関係であった。唯一徳川家が、年1回挨拶する程度であって、そんな無力な天皇家の裏をつくっても無駄だからである。従って、裏天皇が登場したのは、明治以降であろうと考えられる。
ここで、ブログ界で取り沙汰される、明治天皇は薩長によってすり替えられたという説が浮上してくる。明治天皇の前後の天皇は小柄であるにもかかわらず、明治天皇は大男で、血が繋がっているとは思えないというのが、その根拠の一つである。もし、すり替えがあったのだとして、その当時の状況に同化して考えてみると、次のような仮説が生まれる。
皇位継承をどうするかは皇族会議に首相クラスが1〜2名参加した場で決められたと考えられる。皇族たちにしてみれば、今まで一度も見たことのない男を見て、当然「あんた、誰?」となっただろう。しかし、皇族は誰もここで薩長の意志には逆らえない。一方の薩長も、皇族を次々に暗殺してゆくようなことは避けたかっただろう。そこで、こういう話がついたと考えられる。
「欧米列強の凄まじい力に対抗するには、日本を一気に大改造し富国強兵の道を進まねばならない。それには軟弱な天皇では困る。即断即決できる、決断力を持った人物を天皇に据えなければならない。そこで、次の代では元の皇統に戻すので、今回はこの人物(明治天皇)を皇位に据えることを了承してほしい。」
その約束に従って、大正〜昭和天皇は元の皇統に戻った。これが表天皇であるが、すり替わった明治天皇にも子孫はいて、明治天皇の直系が裏天皇ではないか。こちらには長州閥がついており、実権は裏天皇が握り続けていたとすれば、日米開戦などをはじめとする主要な判断は裏天皇が下した可能性が高いと考えられる。 |
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