「私権時代から共認時代へと大転換した」という認識が出てから半年以上が経過した。かつてメジャーだった私権統合型の企業が凋落する一方で、共同体企業である類グループを始め、共同体的性質を持つ企業の勃興が著しい。
共同体への回帰という潮流は、貧困が消滅した1970年代から徐々に顕在化していたが、地域共同体が活性化しているようにはあまり見えない。つまり、多くの人が共同体に惹かれる現在でも、地域に回帰するわけではないということになる。
企業でも地域共同体でもなく、企業の共同体化という新しい道を進み始めた理由は何なのか?
端的に言えば、
(私権)企業に不足しているもの:安定基盤
地域共同体に不足しているもの:闘争課題
⇒両方を包摂した共同体企業への収束
ではないだろうか?
「安定基盤」とは、その集団に所属する人間同士が共認を重ねることで得られる充足の基盤を指す。ダマシ合い、誤魔化しが横行する私権統合型企業では、金銭的安定は一定得られても、満足できるほどの共認充足は構造的に得られない。
一方、地域共同体には安定基盤が存在する。だから私権闘争に違和感を感じる人間にとって魅力的に映る。ただ、充足空間を作り出すことまでは可能だが、逆にそこで満足しきってその空間に篭ってしまうという現象が生じる。結果として閉塞的になってしまい、社会をどうするという意識が芽生えず(≒自分達が良ければよい)、排他的(≒充足を妨げる者は除外する)になって盛り上がらない。
このような地域共同体に欠けているのは「闘争課題」だと言える。すなわち外圧が無い状態であり、競って評価を獲得するという軸がなければ、地域全体で何かを成し遂げようという活力が湧いてこない。活力のない集団に人が集まってくることはないため、例え行政が地域活性化を謳っても空振りに終わることになる。
かつては「貧困との闘争」という集団課題が存在していたため、地域共同体は生産と生活を包摂した集団として成立していた。しかし戦後以降の私権追求の拡大(アメリカ型物質的豊かさへの憧れ・個人主義の蔓延)によって個々の自我が肥大したため、地域共同体は解体されていった。
そして現在、貧困の消滅・経済の失速によって私権への収束が衰弱したことで、再び共認充足への欠乏が高まってきている。ただし現実の問題(生活資金の必要性etc)や意識転換の未発生(認識の欠如)等の理由から、まだ私権企業に向かう流れも存在する。地域共同体に収束する人もいるにはいるが、どこかしら「社会からの隔絶」感を伴うケースが多い。共通するのは「とりあえずの安定・充足」であり、活力に欠ける宙ぶらりんの状態を続けているのが現状ではないだろうか(244853など)。
社会の変化に鋭敏な層は「企業の共同体化」に舵を切り始めている。充足基盤と闘争課題を包摂した集団が最も活力に溢れるからこそ、注目を集め、実際に勝つようになった。
過去への回帰ではない、新しい道としての「共同体企業」。
このような企業が増え、真っ当な判断軸による評価を競う同類闘争を通じて高め合うことによって、社会は統合されていくのではないか。 |
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