古代社会
244817 【ローマの出自4】起源ローマ(2800年前頃)は、通商の民ギリシャとエトルリアとって魅力の無い土地で、通過点に過ぎなかった。
 
麻丘東出 ( 50 兵庫 環境コンサルタント ) 11/01/29 PM06 【印刷用へ
ローマ建国の2800年前頃のイタリア半島は、エトルリアとギリシアの勢力が大きかった。
エトルリアもギリシアも、商業都市国家単位の部族連合で帝国として他国支配が少なかったとはいえ、なぜ、その二大勢力に挟まれて建国し拡大する事ができたのだろう?

以下、<「ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず1」塩野七生>より転載

「イタリア半島は、北国と南国の中間に位置する。それゆえに、北の利点と南の利点の双方をもつ。しかも、この利点は互いの働きかけることによって増大するのが普通だから、イタリア半島でも中央に位置するローマの地勢上の有利さは、唯一無二のものになる。・・(中略)・・まったく神の技にも等しき人間の知恵が、これほども有利な地勢と温暖な気候に恵まれたこの地に、ローマ人の都を建設することに決めたのであろう」
ロムロスの建国からは800年の後になる、帝政初期の建築家ヴィトゥルヴィウスは、都市計画の専門家の立場から、右のように述べた。

しかし、私にはここで、一つの疑問がわいてくる。都市建設用地としてこれほども有利なローマであるのに、なぜロムロス(※伝説上のローマ建国の王)以前には、ここに都市を建設する者がいなかったのか。
近年の考古学によって、紀元前11世紀頃のものと思われる粗末な墓や住居跡は発見されているから、誰かは住んでいたのだ。だが、都市と呼べるものの跡はまったくない。
この地に目を付けた最初の人は、ロムロスであったとするしかないのである。
ロムロスが伝説上の人物で不確かというなら、紀元前8世紀半ばの誰かとしてもよい。

それなのに、前8世紀半ばのイタリア半島には、立地条件さえよければ堂々とした都市でも簡単に建設できるだけの経済力と技術力をもつ民族が少なくとも二つは存在した。
中部イタリアに勢力を拡張中のエトルリア民族と、南イタリア一帯に入植しはじめていたギリシア人である。ところが、この二民族とも、ローマには食指さえも動かしていない。
当時のローマは、七つの丘以外は湿地だったが、エトルリア人は干拓の技術を持っていたのである。

私の想像では、前8世紀半ばの頃のローマは、いやもしかしたらその後もかなりの歳月、エトルリア人とギリシア人にとって、ローマは魅力の薄い土地ではなかったかと思う。
ギリシア人は通商の民であり、それゆえに海洋民族であった。海に面した港をもつことを必須条件と考えていた彼らにとって、テヴェレ河を遡っていかなければ着けないローマは、都市建設地として不適と思われたのであろう。ギリシア人によって建設された南イタリアの代表的な植民都市は、シラクサ、ターラント、ナポリと、いずれも海に向かって開かれている。

エトルリア人も産業と通商の民族だったが、都市の建設に関してはギリシア人と考えを共有していない。彼らは、小高い丘の上に都市を建設する。海に近い土地でも、背後に丘のない土地には彼らは興味を示さなかった。丘の上に城壁をめぐらせた堅固なつくりの都市を建て、そこにこもって平地には住もうとしない彼らの性向はフィレンツェを見るだけでも明らかだ。フィレンツェの起源はエトルリア人にはじまるが、彼らが住んだのはフィエゾレの丘である。アルノ河のほとりに現代までつづくフィレンツェの街は、ローマ人が建てられるまで存在しなかった。
エトルリア人にとっては、ローマの七つの丘はそのいずれをとっても、小さすぎて低すぎたのであろう。そしてもっと悪いことは、七つの丘は近接しすぎていた。エトルリア民族は、適度な距離を保って頂上もゆったりと広い、丘陵の散在する中部イタリア地方に根を降ろす。現代でも中程度の都市として健在なシエナ、ヴォルテッラ、ペルージャ、キュージ、オルヴィエトは、すべてエトルリア起源の都市である。---<中略>---

生まれたばかりのローマが、エトルリアと南伊のギリシアの二大勢力の谷間に温存されたのは、当時のエトルリア人とギリシア人が、ローマの独立を尊重してくれたからではない。当時のローマには、自分たちの勢力圏に加えたいと思わせるだけの、魅力がまったくなかったからである。
商品をもって旅する商人は、買ってもくれなければ売る品も作らない人々には、はじめから近づかない。農業と牧畜しかしらないローマ人は、アテネの職人の手になる美しい壷を購入する資金もなく、エトルリア産の精巧な金属器に支払う紙幣すらもっていなかった。
要するに、商人たちからは問題にされなかったのだ。そのうえ、海にも近くなければ防御にも適していないローマは、ギリシア人にとってもエトルリア人にとっても、根を降ろす魅力もなかった。

北から南に向かうエトルリア人は、海路をとらなければ陸路を南下するしかなかったが、ローマへ来ても、あの辺りでは渡りやすい河の中の小島づたいにテヴェレ河を渡り、ギリシア人のいる南へと向かうだけだった。ローマは、通過点に過ぎなかったのである。
通過点ならば、黙って通しているかぎり問題は生じない。ローマはこうして、幼少期に強大な敵に立ち向かわないですんだのである。また、海を怖れないエトルリアとギリシアの人々を結ぶ幹線通商路は、当時ではやはり海だった。
 
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