ローマの起源であるラティウム地方は、青銅器時代以前には居住者は居なかった。
それが、3600年前の印欧語族のウンブリア系、3200年前の印欧語族のラテン系が入り込み定住していった。そして、そのラテン系がローマを建国していく。
とすると、ローマの起源となるイタリア半島ラティウム地方の原住民とは、青銅器時代3600年前のウンブリア系で印欧語族(原白人)となる。
つまり、ローマ人の基層は印欧語族であり、オリエントの他の部族のように青銅器時代以前からの原住民(黒人)の血が混じっていない可能性が高い。
<「世界の民族地図」高橋通浩>より
印欧語族に属するイタリア諸族は、紀元前2000年紀に、二波にわたって、イタリア半島に南下し、半島中部に定住していく。
紀元前1600年頃に南下してきたウンブリア系、紀元前1200年頃南下してきたラテン系が、その主要な「民族」である。
第二波南下の後者が、ラテン人と呼ばれるのは、彼らが半島中部のラティウム地方に定住したからである。
歴史上大きな意味をもつのは、もちろんこの後者の方である。
それは、ラテン人の建てた都市国家の一つローマが、世界史上未曾有の大帝国に発展するからである。
ラテン人は、紀元前7世紀頃、ラティウム地方にいくつかの都市国家を形成する。そのひとつがローマである(伝承によれば、ローマの建国は紀元前753年、紀元前751年、紀元前729年などと伝えられ、そのいずれもが、紀元前8世紀以前である)。
<ウィキペディアリンク>より
ラテン語の最も古い石碑は1899年にローマのフォロ・ロマーノのラピス・ニゲルで発見された。この石碑は王政初期の紀元前600年頃に作られたと見られている。この石碑はローマ史研究に多大な影響を与えた。一部の歴史家はローマ建国時において支配的な文化はラテン語ではなくエトルリア語であったと主張していたが、同説が明確に否定されたからである。加えて碑文の内容から、神話的な存在であると考えられていたローマ王が実在の人物である可能性も大きく高まった。---<中略>---
青銅器時代のラティウムに居住者がいたという考古学的証拠は見つかっていない。アペニン文化圏で作られた少数の陶器が見つかったが、その数の少なさから近隣の住民が一時的に放牧を行っていたに留まると考えられている。 |
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