@共認不全→本源収束
A社会不全→外向収束
@&A⇒まず『人』収束
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このように、本源収束と外向収束では、不全の元が異なります。
しかし、そのいずれも人に収束す点では同じです。
(25431)
☆先日の体験から・・衝突の原因は根底の不全が異なるからだった。
久し振りに帰省した際に、(久し振りに帰ったのに)政治の事で父と私が大喧嘩してしまいました。
どんな喧嘩だったかというと、
私:「今の日本の政治の仕組みで、上手く行っていないと誰もが感じている。どうして行くのがいいかをみんなで議論していきたい。そのためにはまず事実の追求が必要だし、今の仕組みの中では何も変えられない。」
父:「上手く行っていない、なんて言うが、まず自分はどうしたらいいのか提案はあるのか?今の方法がよくないなって、何の為の民主主義なんだ?そもそも、自分の意見がないのに、現状を否定するなんてなしだ。」
というのから始まって、そのまま、お互い同じ様な事の繰り返し(苦笑)
この衝突:何を問題とするかという議論自体は、私権時代を生きてきた父親世代と、共認原理へ転換して行く社会状況の中で社会に入った私とで、意識の違いが生み出したのだと思います。
ですが、その後に気付いたのが、父が最後に言い放ったこの言葉。
「せっかく帰ってきたお前と、政治の話なんかしたくない!!もっと家族でするような話をしろ!」
というもの。(!!)
(私も父も、このときは頭に血が上ってしまっていたでの、)この言葉は私には、「単に問題を捨象しようとしているだけではないのか、私は単に、父はどう感じているのか知りたかっただけなのに。」と感じられました。
しかし、思い返してみれば、このとき父も同じように「単に、娘と普段の仕事の話で、楽しかった事とか辛かった事を共有したいだけなのに」と思っていたことでしょう。
私は、そのときに父と私との間で『不全の違い』があることをやっと気付きました。
わたしは、るいネットやサロンで認識を学んでいく中で、「答えがない・先が見えない社会。だから、みんなで考えたい!みんながどう考えているのかもっと知りたい!」という“社会不全”を持っていました。
一方父は、日頃話す相手は仕事上のお客さんや母くらいという中で、「年に一度か二度しか会えない子供と、もっと話しをして充足したい!」という“共認不全”を持っていました。
“社会不全”と“共認不全”。お互い不全は全く違うところにあるのに、その収束先が『人』ということは共通するので、父と私との間では、お互いに話はしたいのに平行線を辿るだけの、ただの言い合いになってしまったのです。
自分の期待や、気持ちを正直に相手に伝える事も必要ですが、それだけではだめで、相手の不全を感じ取って、いま、どうしたらお互いが一番充足するのかをもっと意識することが大切である事を学べました。
(お父さん、せっかく帰ったのに喧嘩になっちゃってごめんね。(;;)) |
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