●インドの部族移動の歴史
3500年前 それまでイラン高原のステップ地帯にいたイラン−インド人が寒冷化・乾燥化に伴って、イラン高原南西部に侵入したのがペルシア人、インドに侵入したのがアーリア人。
インドの原住民は、インドに住み続けた原モンゴロイドorスンダランドから来た南方モンゴロイドのいずれかだろう。インドでは、1000年前にできた性の奥義書「カーマスードラ」や男女和合の彫刻が全面に施された神殿をはじめとして、性に対して極めて寛容(大らか)である。この性に対する大らかさはアーリア人にはないはずで、インド原住民の特徴だと考えられる。ということは、インド原住民は母系集団婚の部族であるが、これは原モンゴロイドにも南方モンゴロイドにも当てはまる。
そこにドラヴィダ人がインダス文明をつくった。南方モンゴロイドor原モンゴロイドとシュメール人が混血したのがドラヴィダ人である。シュメール人は原白人と混血しているとは言え黒人の血が濃いので、今も南インドには肌が黒いインド人が多くいる。
また、言語学的にもシュメール語とドラヴィダ語は近い関係にある。
何より、メソポタミア(シュメール)とインダスは陸海の交易路で結ばれていた。インダス文明は交易文明だといえるほど交易が盛んであった。
では、なぜシュメールがわざわざ遠方のインダスまで行ったのか?その動機は?
インドとの交易事業は大事業であり、シュメール都市国家の国家事業である。都市国家における食み出し者が抜け道としてできるような簡単な事業ではない。そこにイランの遊牧部族→商業部族(エラム人)が目をつけ、シュメールとインダスを仲介した。それがシュメール−インダス交易の始まりである。ところが、当時シュメールはセム系遊牧部族の襲来に次ぐ襲来で都市国家財政が窮乏していた。一方、当時のインダスは豊かであった。そこでメソポタミアに見切りをつけた一部のシュメール人が豊かなインドに可能性を求めて向かったのであろう。
☆このインダス文明も3800年前に消滅する。なぜ突然、消滅したのか?
●次回は中国の部族移動を検討する。それまでに検討課題・調査課題を次に挙げる。
☆ここでも、商業部族が微妙な役割を演じている。夏や殷は「商」と称していた。商業部族は、遊牧部族と掠奪部族の中間にあるが、遊牧部族が商業部族になったのか?or掠奪部族が商業部族に転じたのか?
夏をつくったのはモンゴロイドの一派であるチベット族らしいが、彼らは商売性や掠奪性をどの程度、身につけていたのか? インダスと近いことから考えて、商売が儲かることはわかっていたはずだが。
☆チベット族・モンゴル族・ツングース族の分布は?
龍山文化・夏・殷・周はどの部族がつくったのか?
その後、優勢なのはチベット族で→モンゴル族→ツングース族(ex.高句麗)は東方に追いやられている。これは、セム族・ハム族が掠奪闘争を繰り広げていたのが中東であり、そこに地理的に一番近かったチベット族が最も強く闘争圧力を受けていたので強力になったからであろう。
☆トルコ系遊牧部族が登場するが、この出自は?北方モンゴロイドか?チベット族とは違うのか?
☆日本との関係で重要なのは、遣隋使・遣唐使を送った隋や唐だが、隋も唐も漢民族の国ではなく、ツングース族の鮮卑がつくった国家である。なぜ彼らが中原を制覇することができたのか?
資料「古代の部族移動の変遷(8200年前〜3000年前)図解」 リンク |
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