>20世紀のはじめのころ、マックス・ウェーバーという偉大な社会学者が「職業としての学問」という書を著している。私はそれを恩師から紹介され、むさぼるように読んだ。
そこには、「人間の興味としての学問」と「職業としての学問」が対比されていた。
「興味として学問」をしていた時代には、自然を観測し、解き明かし、時にはそこでわかった原理を応用して機械を作る・・・ということが行われてきた。
観測は正確に行われ、議論は真摯に進み、そして発明された機械はジワジワとその価値を認められるようになった。
ところが「職業としての学問」が誕生して以来、都合のよいデータが公表され、職とお金に関係のない議論は無視され、計画的に機械が考案される・・・それは、学問がその身をお金に売り渡したことだ。(233974)
上記は武田邦彦氏のHP記事紹介文だが、同氏が伝えたいことは今日の大学では学問が純粋な知的関心ではなく、職業としてお金を稼ぎ名誉を得るための手段になっていることの指弾である。
だが、少し意地悪な受け止め方をしてみると、「興味としての学問」とは動機が自分発であり、興味関心主義に基づくものではないのかと思う。その問題は次の指摘にある通りである。
>興味関心の出所のうち、最大のエネルギーを持つのは本能だが、本能のおもむくままに生きていたら楽チンな方向に堕落してゆく。つまり、関心主義とは堕落のすすめだったのではないか。(232546)
その点ではむしろ、「職業としての学問」の方が社会的に必要とされている“外圧”に応じたものであり、(データや事実を歪曲したり都合のよい解釈、価値判断をするのでなければ)健全な動機になり得るともいえる。
実は同様のことを昨日放送していたNHKの番組でも感じた。そこではハッブル望遠鏡を使って132億光年彼方を観測する学者が紹介されていたが、曰く「人類がどこから来たのかルーツを探る事は根源的欲求である」という。
しかし、本能や共認次元で「人類がどこから来たのかルーツを探りたい」といった欲求などない。勿論、我々も歴史構造認識を鍛え眼前の諸課題に対応していこうとしており、歴史を知り歴史から学ぶことがとても重要なことと認識している。しかし、当の学者の発言からは、斯様な最終的に類的価値にどう還元していくのかという視点が薄弱に感じられるのだ。
その意味では、西洋哲学が「存在とは何か」「疑いえないものは何か」「あなたと私が同じものを見ているとどうして言えるのか」などと、本能や共認次元とは乖離した架空の問いを発し、自己中心的な興味に基づき観念を暴走させていったことと、本質的に余り違いはない。
>私が環境問題に疑問を持ち、学会や社会にそれを問うているのは「学問的興味」であって「別の目的」はない。(233974)
その「学問的興味」とはとどのつまり好奇心であろう。或いは純粋な学問的関心、知的好奇心などとも言い換えられそうだが、確かに勉学を重ねる中での疑問、仮説など学問上のコンテクストに現れた普遍的な問いなのかもしれない。
けれども、それがどれ程必要な事なのか、どのような外圧に適応し我々の共認充足に役立つのか改めて捉え直す必要がある。
なぜならば
>今現在、新しい認識が求められているのであれば、2600年前の社会統合機運と近しい現象が顕れているはずである。
環境破壊、経済危機、検察・官僚・マスコミの暴走=社会はガタガタ、悪化するばかり。にも拘らず、世界中の学者が百万人もいるのに、どこからも答えが出てこない。(233913)
という、役に立たない学者馬鹿で溢れ返っているのが、今日の学究の世界なのである。
科学や学問が価値中立の姿勢を保つ事は当然だが、それと事実としての外圧適応という合目的性を任意とするのは同じではない。相対化され得るような価値論を言っているのではないからである。
つまり、どのような職であれ社会の外圧に関わらない営みなど本来的に存続し得ない。ところが己の頭蓋の中だけで、或いはごく少数の学会の中だけでしか存在し得ないような“学業”が外圧の隙間に存在していること自体が異常なのである。
そのような倒錯世界に身を費やす愚を一掃するには、学者諸氏が素人に自身の学問を行う目的、必要性を語り、同時に我々素人も積極的に問いを投げ掛けていく場が必要だろう。そこで学者の説明が評価を得るには、どのような諸課題が人類に立ち現れているのか看取する力をこそ、まずは問われることになるからである。
その為にも、我々は学歴や学位といったレッテルで人を見る・判断する意識を変えていかねばならない。試験制度や学歴社会という私権社会の残滓払拭の一道程として。 |
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