<6世紀〜7世紀>
蘇我氏の氏寺とも称される法興寺(飛鳥寺)の造営に際しては、倭の援助要請を受けた百済の昌王が588年に僧や造寺関連技術者らを倭へ派遣している。すなわち、馬子の飛鳥寺造営は、百済王からの人・技能の贈与があってはじめて可能となった。
飛鳥寺は、蘇我氏の師弟や蘇我系の王子に限らず、王権全体の子弟育成センターのような機能を果たしていた。すなわち、朝鮮王権からの贈与を含む飛鳥寺のもとに集められた渡来文化の成果は、王権内の人々に再び贈与・分配・共有されていった。渡来人・渡来文化は、社会関係の中で移動し、それらを繋ぐ財として機能していたのである。
隋帝国が成立した頃(600年〜610年)の倭王権(推古朝)は既に合議制が機能し、支配者層の意思統一がはかられていた。しかし、合議に参加する群臣の下には、朝鮮諸王権から様々な贈与があり、いまだ外部王権と個別の関係も保たれていた。従って、国際関係がますます複雑化する中にあって、王権はそこに潜む複雑なネットワークをも強く警戒するようになる。飛鳥寺を巡る蘇我氏と百済との太いネットワークは、この倭王権の意図を強く反映したものだったのだ。
同時に、東アジアに由来する最新の知識や技能の移入を、かつてのように朝鮮諸王権の意を受けて渡来する人々の身体にのみ依拠する形態を改めていく。
渡来系氏族がその内部で再生産してきた渡来文化・技術は、それが更新される場合、朝鮮半島から新たな渡来者を取り込むことが一般的だった。これが、朝鮮諸王権の意思の介在しやすい構造になっていた。
ところが推古朝以降は、渡来系氏族出身者を直接隋・唐に派遣することで、渡来文化・技術の刷新を図ることが一般化していく。こうして、遣隋使(→遣唐使)が体制化されていく。
(参考 田中史生「倭国と渡来人」) |
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