勿論、中国やペルシャにおいても地方の反乱とそれによる帝国の崩壊はたびたび起きている。それによって、中国にも封建時代はあったというような言い方はできなくもない。しかし、ヨーロッパと日本における官僚制の発達の遅れ、そして市場経済の発展という共通項を考えると、封建制度を欧州と日本に固有な特徴とみなすことは可能であろう。
しかし、「封建制だった欧州と日本が近代市場社会化に成功した」のだとしても、それは何故なのか。叩き台は、60年代に駐日大使をつとめたライシャワーの以下の見解であろう。
>ライシャワーは“封建制の経験が近代化に資する理由”を次のように挙げました
>@ 専制制度に比べると封建制度のしたでは、法律的な権利と義務が重視されていたので、近代の法概念に適応するような社会の発達がいくらか助長された
>A 封建領主は、土地の所有と地租の徴収に専念していたので、商人と製造業者は専制政治の下に於けるよりも、大幅の活動範囲と保障を得ることが出来たらしい
>B 領主(武士)階級以外は政治権力から除外されていたので、身分志向的な倫理観よりも、目的思考的倫理観が助長された
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遠まわしなライシャワーの発言をもっと単刀直入に言い換えれば
@ 王政権力を相対化しうる権利概念が発達していたこと
A 中央集権=官僚よりも商工業者たちの活躍の幅が広かったこと
B 序列よりも金儲けをよしとする目的合理主義的精神風土ができあがったこと
ということだろう。
確かに、Aは妥当性が高い。欧州も日本も王よりも地方に割拠する諸侯、武士集団の力が強く、王政権力の絶対性は低かった。それ故に、金貸したちが取り入る先が多くあり、諸侯同士の戦争を煽って、金貸しが幅を利かせやすかったというのは事実であろう。
しかし、日本近世において@Bはあまり当てはまらないように思われる。しかもAについても、織田信長の時代や初期江戸幕府は商工業者を優遇したことが認められるが、後期になるとかなり制限を加えていく。(徳政令は国家権力が商業権力をコントロールしていた証ではないか。その意味で、江戸幕府は武士の反乱をも押えつつ、他方で商業権力の暴走をも食い止めるという、強権的ではないが中央集権的な極めて高度な統治システムを実現していたといえるのかもしれない)そして明治政府以降の動きは金貸しの暗躍を認めた面があるとはいえ、国家官僚主導で日本経済は伸張していった。
言い換えれば、中国(清朝)では官僚制度は市場拡大の妨げになったが、日本では市場拡大に貢献したのだ。このような矛盾はヨーロッパでも起きている。
>フランスやドイツでは、ブルジョアジーは商人資本主義的であった。彼らは現状で得られる利益に固執し、産業資本主義的な改革には向かわない。では、誰があえて改革を追及するのか。一方では、「国家」である。「国家」は、圧倒的な工業によってヘゲモニーを握ったイギリスに対して切歯扼腕していた。そして、他方では、社会主義者である。なぜなら、イギリスの産業資本はフランスのマニュファクチュアを圧迫し、プロレタリアを苦境に追いやっていたからである。社会主義者こそが産業の発展を唱えなければならない。言うまでもなく、サン・シモン主義がそれである
リンク (柄谷行人AT2005年1月号)
つまり、一度、商業権力によって近代市場が開かれると、それに対抗するために、国家も社会主義者も「科学技術」による産業振興へと舵を切り、それが市場拡大に拍車をかけることになったという訳である。
まとめると中央集権でなく封建制だったから商業資本が暗躍できる可能性がたかまり、近代市場の基盤がつくられたのではないか。そして、その上に国家統制型の市場経済を作り出していったのが江戸以降の日本なのではないか。
日本は市場経済の発展形を世界に示しうる可能性を持っているのではないだろうか? |
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