実際、真猿やチンパンジーの性闘争⇒序列闘争において、既にオスたちの自我回路は形成され作動していると見て、間違いありません。また、メスたちにも性闘争⇒序列闘争(いがみ合い)はありますし、それに加えて、同類闘争において全く戦力にならないという役割欠損(存在理由欠損)を孕んでいるので、メスたちが自我回路を形成しているのは、間違いないでしょう。
真猿集団の内部に発生するオス間の性闘争=自我闘争(更にはエサの取り合いetc.の私権闘争)やメスの規範破り(他の群れとの不倫)は、集団を破壊する危険性を孕んでおり、何としても止揚されなければなりません。しかし、周り「全てを敵」と見ている限り、共認は成立しません。この様な欲と欲がせめぎ合い、自我と自我がぶつかり合う性闘争や私権闘争は、力によってしか制圧できません。そこで真猿は、性闘争・私権闘争を制圧した力の序列を共認することによって(力の序列を秩序原理とすることによって)、性闘争・私権闘争を止揚し、共認の破壊=集団の崩壊を喰い止めているのです。
事実、真猿集団のオスたちは、15匹居れば1番から末端の15番まで序列化されており、一方では挨拶などの序列規範を守りながら、同時に絶えず序列闘争を繰り返しています。この様に真猿集団における序列闘争は、基本的に力の論理に貫かれた世界であることを、忘れてはなりません。つまり、根本的には力(or力関係)が序列秩序を維持しており、この力(or力関係)という基盤の上に、序列規範が形成されています。逆に、もし性闘争を源泉とする序列闘争=力の論理を制御する機能が無ければ、集団は解体されて終うでしょう。それが親和共認や闘争共認や規範共認etcの共認機能です。つまり、性闘争→力の論理も、基本的には共認の制御下にある訳です。
補:『私権闘争は力の序列共認に収束する』というこの原理は、人類の「文明時代」にも顕在化する。文明時代3000年間は、力の序列→身分制が秩序の根幹となり、体制の主軸となっている。また近代においても、『力関係を基盤にした秩序規範』というこの構図は、何ら変わっていない。例えば、力関係の弱者が社会主義や全体主義へ行くしかなかったのに対して、強者が「個人の自由」を謳歌し、弱者を悪者視するという構図がそれである。ここでは、「個人の自由」という観念が秩序規範の役割を果たしている。とりわけ現代は、学者やマスコミや官僚etc身分社会の勝者=社会統合階級が「個人の自由」を謳歌すればするほど、弱者たる非統合階級の自由はなくなってゆくという構図に、注目する必要があろう。上辺は平等を装っているが、「個人の自由」とは強者の論理なのである。
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