『人はなぜ戦うのか−−考古学から見た戦争』松本武彦著からの引用で、阿修羅に【戦争を拒んだ縄文人?戦争を拒んだ縄文人?『人はなぜ戦うのか−−考古学から見た戦争』松本武彦(リンク)】から転載します。
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戦争を拒んだ縄文人?
〜前略〜
生産や生活のありようが、経済的なベースの部分において、戦争の発生に深くかかわっていることをみてきた。しかし、そうした生産面・生活面の条件がそろっていても戦争が発動されない社会もあるし、その逆もある。「例外」として注意されてこなかったこのような事実への注目によって、これまでとは違った視点から戦争の発生を理解することが可能になるだろう。
たとえば、日本列島の縄文時代の場合、その中頃から後半にかけて本州東半分の社会は、単一ではないが特定の食糧を大量に生産し、多くの人口をかかえ、本格的な定住を行ってきた。青森県の三内丸山遺跡などの大集落の存在がしめすとおりである。また、道具や利器で傷つけられた人骨の例も、縄文社会では10例ほどは知られているので、個人的な攻撃の行為はけっして希ではなかったようだ。こうした条件のもとでは、集団どうしの戦争が行われても、なんら不思議ではない。
しかし、考古資料から判断するかぎり、縄文社会には戦争は行われなかった。・・戦争の存在を物語るほかの証拠はほとんどない。縄文社会が、弥生社会とくらべてはるかに戦争と縁遠かったことは確かだ。
近年、筑波大学のマーク・ハドソン氏は、縄文文化について興味深いみかたをしめしている。大陸ではすでに紀元前6000年頃から農耕が行われており、そことの接触があったにもかかわらず、縄文の人々は本格的な農耕に数千年間も手を染めようとはしなかったことに、ハドソン氏は注目する。そして、そこに縄文社会側のイデオロギー的な「抵抗」があったのではないかと考えたのである。
ハドソン氏のこの考え方は、戦争についても当てはまるかもしれない。大陸では、縄文時代の中頃に当たる紀元前5000〜前4000年には戦争が始まり、縄文時代のおしまい頃には、中国は戦国の動乱のまっただ中だ。さらに、その余波がかなり早くから朝鮮半島にまで迫っていることも考古資料から確かだが、縄文社会はそれを受けつけた気配がないのである。つぎの章で述べるように、本格的な稲作農耕と戦争とは、当時の東アジアの地域では、一つの文化を構成するセットをなしていた可能性が考えられる。だとすると、固有の伝統を守りつづける傾向が強かった縄文の人々が稲作農耕を「拒絶」したことが、それと表裏の関係にあった戦争の導入をもはばむ結果につながったのではないか、という想定が浮かび上がってくる。
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とある。また、書評には、
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近年の発掘によって、弥生時代の遺跡から戦いで傷ついたと考えられる遺体が多数確認されているそうだ。本書によれば戦争の主因は、人間が本能的に抱える暴力性ではなく、農耕社会の構造的もろさに起因する。農耕を始めた当初は、栄養豊富な穀物が行き渡り、人口の急増とそれを支えるための耕地拡大が繰り返されるが、いずれ耕作適地の限界に突き当たると食糧は不足がちになる。また食糧の大部分を、少種類の栽培穀物に頼ることは、天候不順等の環境変化に対する耐性の低下につながり、飢饉のリスクを抱えざるをえない。著者は、こうした危機に対するリアクションのひとつとして戦争が始まったと考える。それゆえ水稲耕作の到来と同時に、それ以前の縄文社会にはみられなかった「戦いのイデオロギー」(環濠集落の発生、対人武器の常備、勇敢な戦士への崇拝、墓への武器の副葬等)も普及し、集団間の紛争の解決に組織的暴力を用いることが日常化したのだという。
(リンク amazon書評より)
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>利害ではなく信認関係に基づくネットワークの構築、と言えば、これから我々が目指す社会のあり方と見事に重なってくるように思えるのですが・・・。『縄文ネットワーク6039』より
決して、争いや戦争が、本能的なものではなく、生産や生活面の影響だけではなく、掠奪・独占・私有という意識、他者攻撃・自己正当化=自我という意識が芽生えなければ、 信認関係に基づく縄文ネットワークを構築できるということを縄文時代の人々は教えてくれているのかも知れません。 |
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