「自主管理への招待」を読んだのは、今から28年前になります。
「意識生産」という言葉を初めて目にしその意味を知ったときの、目の前の霧がすーと晴れるような新鮮な感懐が今でも甦ります。
この当時既に、第3次産業時代の到来、「情報化時代」、「サービス産業化」、と言った言葉がマスコミに登場していたと思いますが、いずれも物事の一現象を表す言葉でしかなかった。
実をいえば最初、「意識生産」という言葉からは、何となく「柔な」不確実な印象を受けた記憶がある。
しかし、<人問と社会との夫々の存立の基盤を成し、夫々の存在の中核と成っているのは、生産であり労働である>
<私たちの認識にとって重要なのは、あってもなくても良いような「思想」ではなく、人間と社会の基底的な現実を形成している生産様式の認識であり、あるいは、社会への一方通行で空まわりの「自己主張」ではなく、人々の根底的な欲求が交わり合う生産関係の認識である。>211322
とあるように、意識生産という言葉が、人類史の塗り重ね構造の結果として、現代から次代の社会の生産様式を表す言葉として名付けられたことを知るとき、これ以上的確な呼び方は無いと思えるようになった。
ただ、30年近く経て「意識生産」という言葉は必ずしも人々の間に定着し一般化され使用されているわけではありません。
しかしその後、20年近く後に「発見」された「共認」という言葉(観念)も同様ですが、ある普遍的な事象や観念を一言で的確に言い表す言葉を紡ぎだせれば、後は社会のほうがむしろそれを追認することになるのかもしれません。 |
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