かつて「労働疎外」「疎外労働」という言葉が社会学者の間で頻繁に使われた。マルクスあたりからだろうか。
狭義には、資本家(+経営者)と労働者という2つの対立する階級の存在を前提にして、資本家の道具(機械)と化し、主体性を失ったという意味で“疎外された”労働者の労働環境を改善するために、「両者の間のミゾをどう埋めるか」「妥協点をどう見出すか」という文脈で使われ、労使間での闘争が繰り広げられてきた。
また広義には、自分が行う生産行為が末端の消費者にどう受け取られているのか、そのお互いの顔が見えない状況をとらまえて、生産の現場が消費の現場から「疎外」されているという意味で使われることもあったように記憶している。
しかし、状況は変わった。「ネット直販」などインターネットの普及で生産者と消費者が近づくことにより、広義の疎外状況については、明らかに突破可能性が見えつつある。
一方の狭義の労働疎外、つまり労使間の「使用するもの、されるもの」という関係はどうだろうか?残念ながら長年にわたる社会運動を経てもなお、いまだに「派遣社員の大量解雇」「勝ち組・負け組」といった階級(序列原理)が強く社会に横たわっているように見える・・・。が、果たして本当にそうだろうか?
マスコミは確かに格差社会を喧伝しており、そのような事実が存在しているのは確かだ。しかし一方で、すでに30年前に「自主管理への招待」(211502ほか)でも指摘され、最近のるいネットでも具体事例が示されているように、「自分たちの生きる場を自分たちでつくる」活動がいたるところで産声を上げている(実際、今活力ある企業や職場は、基本的にこの原理で運営されている)。
そしてそれは、古い社会活動家たちが「疎外労働」というキーワードを駆使して、資本家や経営者と闘ったのとは異なり、そのような旧観念や古い社会活動とは無関係に、序列によるしがらみのない労働環境を一から作っていくという発想で運営されている(そして、おそらく当人たちは「疎外労働」なんて言葉は知らない)。
同じような状況を、哲学者・内山節が昨今の農業ブームを分析する中で以下のように書いている。
>根底に流れているのは、持続性を感じられなくなった社会、信頼できなくなった近代のシステムに対する一種のニヒリズムである。
(中略)
1970年代には「脱サラ」という言葉がブームになっているし、その頃から職人的な仕事や農業を志す人たちもでてきている。
(中略)
そんな人たちが目指していたのは、自分の生きる世界を自分でデザインしていく生き方だったと言ってもよい。大きなシステムに個人がのみ込まれていくのではなく、生きること、暮らすことを自分でデザインする。
(中略)
それは近代的世界へのニヒリズムを通過して生まれた、持続性のある社会や生き方を再確立していこうという試みである。<(7/22朝日新聞夕刊「近代へのニヒリズム 農業・農山村ブームの再来」より)
この内山節という学者は一風変わった人。労働問題の研究者あるいは農業実践者として特に肩書きのない生活を送っており、一般的には「哲学者」として紹介される人。そして、過去の彼の著作には「労働疎外」という言葉が頻繁に登場していた。
しかし、今回引用したこの新聞のコラムを読んで驚いた。そこにはこのキーワードが一切登場しないのだ。テーマはまさにそれを扱っているにも関わらず、である。
これは、在野から真摯に労働問題を追求してきた内山節がようやく新たな可能性を見出すことで、使い古された「労働疎外」という古臭い言葉を使わずとも現代社会の問題と可能性を提示できるようになったという意味で、小さな出来事ながら時代を象徴しているように思えた。 |
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