>新しい可能性は、現存する同類闘争の場(=市場)の中で、現存の評価指標(=お金)に則って現実の必要が認められ、勝ち抜いてゆくことによって、はじめて既存の全てを自らの下に収束させてゆく新しい最先端機能であることを、人々に証明することが出来る
有料にする、いくらにするか決めるという行為は、一つの意志表示ではないかと思う。「この商品(認識)の価値を伝えきるには、いくらがベストなのか」という思考が働く。その時には、同時に「どんな人たちにまず伝えたいのか」という想いがある。
この商品(認識)の価値、必要性に気付き、共感してもらえる人たちとはどんな生活をしていて、どんな問題意識を持っていて、どんなことにお金を払っている人たちなのか。そのイメージを膨らませるとともに、どのような伝え方であればよりその人たちに響くのか、という視点で商品(認識)はより深く練り上げられていく。”値決め”も、こうした追求過程における重要な要素であると思う。
逆に、タダでいいや、安ければ売れる(集まる)だろう、という意識では、商品(認識)を磨く内圧はかからない。それでは、伝えたい人たちにこちらの想いは届かないし、社会からの評価は得られない。
新しい認識に値段をつける、という行為は、旧い現実の中で”本気で勝ち抜く”意志を社会に示すために不可欠であると思う。
☆参考投稿:『事実認識が最大の付加価値』(208119)
>最近、路上で新しい事実の体系【グランドセオリー】を大量に買っていく人がいる。先月は、一度に7冊・5冊購入する人が出た。50ページ程度で2000円の値段は、一般書籍と比べると決して安く無い値段である。しかし、現実に購入されるのは、そこに見た目以上の「付加価値」を感じているからである。 |
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