>『必要か否か』という土俵上では、どれだけ多くの人が必要と認めたかが、つまり『人数』こそが、「お金」を超える最先端の評価指標となる。そこでは、お金は人数を判定する基準(お金を払った人だけを人数として数える)にすぎなくなる。つまり、古い評価指標=お金は、新しい評価指標=人数の補助指標に転落する。(33995)
評価指数として「人数」という概念が与えられたとたん、それは民主主義における「多数決」とはどうちがうのか?という疑問がわく。
「多数決」とは、私有権力の大きい側が意識潮流を操作できるという状況下で、人数カウントされるものだ。いわば、捏造された、誂えられた土俵の上での闘い。
一度通れば4年は安泰(そのまま)、という旨味は、操作した側の私有権をさらに増大させる。しかし、本来の共認闘争とは一度でケリのつくものではない。なぜならば、外圧は刻一刻と変化しており、それに適応するために、共認内容も日々変化し、また、塗り重ねられていくからである。
日々の評価闘争の累積の中で、ひとびとの審判は行なわれ、「人数」を獲得していく。これが真っ当な「判断の土俵」である。そこには、マスコミを動員した奇人変人が総理大臣になれるような余地は全くない。
「『判断の土俵』を基礎とし、『人数』を評価指標とする新しい演場」(33995)の最先端として、るいネットを受信し、発信していきたい。 |
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