ネットサロンにて「自分」「自我」「個人」の関係について考える中で、「自分」という言葉の意味について気付きがあった。
封建時代=序列統合時代、人々は末代固定の強力な「身分」制度の中に身を置いていた。
「身分」とは、社会の安定秩序を維持するために、本能原理(序列原理)に基づいて社会的に設定されたシステムであり、例え奴隷であっても、ある「身分」に属し、そこでの規範に従い生きることで生存は保障された。
やがて、一握りの王や特権階級のみが富を独占する封建体制から、万人が私権闘争に参加可能な市場時代への転換が始まる。
そこでは、誰もが潜在思念に有するえげつない自我・私権意識を美化・正当化し、活力源に転化するために「個人」という観念が捏造された。
・・・“自由”とは個人の自由であり(結果秩序は破壊され)、“平等”とは各個人が私権闘争に参戦する機会の平等であり(結果不平等な社会ができあがり)、“愛”も自己や排他的な一対関係に限定された愛であった。(結果他者への愛は失われた)
やがて、市場化(⇒科学技術の進歩)によって1970年頃貧困が消滅すると、私権闘争の無意味化に伴い、それを美化・正当化した「個人」という観念も必要がなくなり衰退。
しかし、この「個人主義」は、今や「自分」(自分らしさ、自分のやりたいこと、自分を大事に・・・)という自と他を分断し、意識を内面へと向かわせる観念として延命し続けている。
ここで、「自分」とは、かつての「身分」が社会的に与えられた「分」であったのに対し、自らが己の「分」を決めるという意味を持っていることに気づかされる。
自らが己の「分」を決める、誰も助けてはくれない、自由にやって良いが、もし失敗したら自己責任・・・まさに全て「自分」に掛かっている・・・
「自分」という言葉は、まさに「個人主義」によって拠るべき集団も規範も解体され、バラバラな個人となり頼るものが無くなってしまった現在の淋しげな人々の在り様をよく表わしている言葉だと思った。
そして、貧困の消滅以降、序列原理⇒「身分」、市場原理⇒「自分」に代って人々の新たな拠り所となるのは、共認原理に基づく「役割」ということになるだろう。 |
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